[23/10/22 10:46 by T.T]
トルコ歴史探訪⑥(4日目前半 セルチュク:セルチュクの街~エフェス遺跡~アルテミス神殿~聖ヨハネ大聖堂~考古学博物館~イズミルへ)
こんにちは、田邉です。
トルコ歴史探訪も残すところあと2回、夜行バスに乗って最終日を迎えます。
さて、4日目の午前5時、深夜高速バスはセルチュク(エフェス遺跡の最寄りの街で公共交通機関のターミナル駅)に到着し、ここで降りたのはなんと我々2人だけでした。しんと静まり返る街に我々を出迎えるものがいました。大型の野犬です…
う、嘘だろこいつら…ってくらい野放しのデカい野犬が4,5匹、我々を(恐らく)歓迎しています。元気で運動量の多い野犬たち、オオカミと見まがうような迫力でじゃれ合い、特になぜか野良猫を追いかける時だけは本当にオオカミのような凶暴さです…
しかし、なぜか彼ら、我々に食い物を出してくれたらラッキーくらいに期待はしている様子なものの、一応行政から躾をされているのか決して噛みついてくることはありませんでした。
観光地は8時まで空かないのでその真っ暗な街でどう過ごすかでしたが、なんとロカンタ24という24時間営業のロカンタがあるとのこと。実は深夜高速バスに乗っている間も大小いくつかのパーキングエリアやサービスエリアのような場所に休憩に寄っていたのですが、こうした深夜営業の施設があることも実はちょっと意外でした。
深夜高速バスという業態が成立している時点でそういうものはあって当たり前なのですが、恐らくお酒を飲まないイメージに起因しているのだとは思いますが、なぜだか私にはイスラム教徒の方が深夜に起きているイメージがなかったのです。またコンビニエンスストアのような業態で24時間営業の店があんなにたくさんあるのは日本が特殊、という先入観にも逆の形で囚われていました。「あんなにたくさん」はないかもしれないけど、あることはあるのです。やっぱりこういう細かいところでも微妙な偏見ってあるもんだなぁと思いました。
ロカンタ24の近くにはもう一つおじ様たちが酒盛りをしている24時間営業ロカンタがあったのでそこに入ります。そのロカンタはイスタンブール・オトガルのロカンタと同じく朝食にピッタリのスープとパンを提供していました。私は昨日の予約トラブルでカロリーメイトと途中のサービスエリアで買ったスニッカーズもどきみたいなお菓子しか食べてないので腹ペコです。イスタンブール・オトガルでは野菜の裏ごしみたいなスープが多かったですが、ここはかなり肉の煮込みにニンニクを加えたようなガッツリ系スープが多くあり、これはもう今の状況にうってつけです。私は羊の足を煮込んだスープを、小泉くんはモツ肉(内臓)を煮込んだスープを頼みました。店主は追いニンニクを出してくれましたが、それが絶妙に合うような活力の出る味で、深夜高速バスの洗礼を受けて朝っぱらから疲労した我々には効果抜群です。
店主のご厚意でトルコ紅茶”チャイ”もサービスしてくれて、ほっこりとした気分でまた4日目の旅を始めることができそうです。
エフェス遺跡に向かうにはまだ開館時間より随分早かったので、外から観るだけでも圧巻のセルチュク城塞を眺めたり、その高さから街並みを眺めたり、近くの公園に寄ったりセルチュクの街のぶらり散歩を楽しみます。公園で面白かったのは、その公園、いわゆる古代ギリシャ様式の柱の残骸があったのですが、ちょっとした砂場みたいになっていて、尚且つ、そこに「まぁ、普通の公園ならあるよね」程度のゴミが捨てられていたことです。「え、こんな歴史遺産っぽいものがそんなテキトーな扱いなの」と思うと同時に考古学的な歴史と生活の近さをこんなちょっとしたところにも感じました。
さて、いつの間にかいい時間になっていたのでエフェス遺跡へ徒歩で出発です。(尚、この時私も小泉くんも若干縮尺を間違えていて、結局約4㎞歩くことになりました、、、)
歩き出すと不思議なことが、、、先ほどの大型野犬たちの1匹、三車線の国道を歩く我々をどこまでもどこまでも着いてきます。私たちが足を止めると止まり、進むと少し前を行き我々を案内してくれるような感じで一緒に進み始めました。小泉くんと大型犬が進む様子がさながら「サトシとピカチュウ」のようでした。我々は彼を「Our Friend」と呼び始めます。Our Friendは道中の邸宅に繋がれていた飼い犬と途中小競り合いなどをしながらも、エフェス遺跡まで片時も離れずに我々を先導し、そのままエフェス遺跡に入り、その後は離れていってしまい、ちなみにエフェス遺跡を出る時に見たら他の観光客に懐いているような様子すら見受けられました。「こいつはここの従業員(のつもり)で、さっきのはたまたま出勤時間が被っただけだったのか?」謎のほっこりOur Friend事件です。
さぁ、結局1時間弱かかって、本日の超メインイベント、エフェス(「エフェソス」とも表記する)遺跡に辿り着きました。
”エフェスでは、世界七不思議のひとつであるアルテミス神殿、聖母マリアの家、世界三大図書館に数えられるセルシウス(ケルスス)図書館など、ヘレニズム時代・ローマ帝国時代・初期キリスト教時代の貴重な遺跡を数多く見ることができます。
ローマ帝国時代には、かの有名なアントニウスとクレオパトラも滞在し、古代ローマ帝国では貿易の要衝となり、初期キリスト教時代の教会会議や公会議が幾度も行われるなど、歴史的にも重要な意義を持つため世界中から多くの観光客が訪れる。”というのが旅行会社の紹介プロフィール、ちょっと背景知識は薄目ですが、ここでもまた忘れられない感動の時間が我々を包みます。
特に大きく感銘を受けたのはここは当時誰もが憧れる先進都市で大都会だったという、その痕跡を随所に感じ取れたことです。例えばこの遺跡内で恐らく観光地パンフレットの写真なども一番多く有名なのは、今でもコンサートで使用されるという大型の円形劇場です。改修されたとはいえ、古代にこんなスケールのデカい、しかも生活インフラでなくエンタメ用途の建築物があったということに衝撃を受けます。またこの円形劇場の正面には先述のアントニウスやクレオパトラも来航したであろう貿易港からの道があり、この大劇場のある大都会を船旅を終えて初めて観た人たちの衝撃や興奮はどんなものだったのでしょうか?(例えばニューヨークに初めて降り立ったような感動なのかもしれません)
私と小泉くんはエフェス遺跡の建築物を見て、ひたすら大興奮してピョンピョンしてましたが、その時代に大都会エフェスを目の当たりにした人たちも、私たちと全く同じように大興奮でピョンピョンしていたのかもしれません。(最も、アントニウスやクレオパトラであればそもそも都会から来ているのでそんなにかもしれませんが)
図書館も非常に素敵でした。これはこの日の終わりの出国前に小泉くんとも話したのですが、古代の人が図書館を建てて「知を集積する」という営みが生まれていることにそもそも大変な感動を覚えます。
これもあくまで私の視点ですが、「知を集積する」ということの多くは自分が死んだ後に未来を生きる人のための行為であり、古代の、自分がその日一日を生き抜くことすら難しかった時代に「この世界がずっと続いて、さらにより良いものになれば良い」とそんな願いを込めて図書や図書館はつくられているのではないかと思うからです。
その考えに辿り着くためには、平均年齢80歳を超え、地球温暖化も予測できる現代人が「未来のためを想う」のとは一線を画すような高尚さ・精神の気高さがあったのではないかと想像しており、そんな点から「古代の図書館」というものに感動してしまいます。
我々はすごく早めに着いていたので円形劇場で、アメリカからの旅行者と思しきお兄ちゃんと他に誰もいないのをいいことに遊んだりしていました(「入間市OLCの歌」世界デビューです)。しかし、美しい遺跡に気を取られているといつの間にかツアー旅行客がめちゃくちゃ増えてエフェス遺跡が大賑わいになっていることに気付きました。エフェス遺跡にはアゴラと呼ばれる市場などが開かれるような集会所があり、メインロードの緩やかな坂を隔てて、それぞれ「上のアゴラ」「下のアゴラ」と呼ばれています。
この時、上のアゴラ辺りの坂の上から下を覗いてみると、図書館から娼館、集合住宅(奇しくも「テラスハウス」という名称)に至るまで、この古代都市に驚き、興奮し、おしゃべりが止まらない様子の人々の群れで埋め尽くされています。
この光景がとても心に響きました。もしかしたらですが、最先端の都市に驚き、興奮し、おしゃべりが止まらない、当時を生きていた人たちも今目の前にいる人たちと全く同じような表情で全く同じような反応をして、この場所にこんな風に人がたくさんいたんじゃないかなと想像したらなんだか”二千年の時を一気に超えたような”堪らない気持ちになってしまったからです。
この旅行で何度も感じていることですが、圧倒的な文化や技術力には人々をあっと言わせる普遍的な力が備わっているのかもしれませんね。これがオスマン帝国文化の15世紀以降よりも、ビザンツ帝国の時代よりも、さらに何百年も前に造られたものであるという事実が、その感動をさらに大きなものにします。文明もそれほど発達していない時代であればあるほど、そこで引き出された人間の力や意志、そして何よりも「自分たちの可能性を信じる力」をより強く感じ、畏敬の念を抱きます。
古代を中世に、中世を近代に、近代を現代に、変えてきたのは「未来のためを思い」「自分たちの可能性を信じる力」なのではないかということをこの場所で改めて感じました。
さて、大満足でエフェス遺跡を出て、地元の親切なおじさんが割引価格でセルチュク行きのバスに乗せてくれます。次のイズミルまでの出発にはあと1時間ほど。
この後、アルテミス神殿跡、聖ヨハネ教会、考古学博物館に行きます。
アルテミス神殿は他に何もないぽっかりした原っぱの絶景スポット?という感じでしたが、エフェス遺跡以外のセルチュクの見どころが全て一つの風景に詰まった確かに絶景スポットでした。
もう一本しか残っていないというアルテミス神殿の柱は本来10本あったそうで、奥にはモスク、聖ヨハネ教会、そして早朝に観たセルチュク城塞の城壁が全て一望できました。ここでは謎の解説おじさんが現れて10本の柱のことをめちゃくちゃわかりやすく解説してくれました。
当然のことながら彼は物売りでその解説絵本を売ってくるなどしました。あまりこういうのを買いたくなくてあと付き纏われるのも面倒なので断りましたが、彼はエフェス遺跡で発掘をしていて、この間もアレクサンドロスやカエサルのコインを掘り当てたと見せびらかしてきました。これも商品のようで、ちょっと心惹かれます。
おじさんの話の真偽もそのコインが偽物かどうかも分かりませんが、正直偽物なら偽物でお土産・記念品として割と出来が良いくらいのものでしたので、かなり後ろ髪引かれながらの退却となりました。
聖ヨハネ教会はこれまた予想を完全に裏切る最高のスポットでした。小泉くん曰く、布教活動を終えたヨハネが聖母マリアとともに余生を過ごし、生涯を終えた場所ということで密やかな隠居場所というイメージを持っていたからです。
しかし、行ってみると絵に描いたような古代ギリシャの遺跡群!
見晴らしの良い丘に建てられたこの遺跡はセルチュクの街の展望台ともなっており、先ほどアルテミス神殿から見えたセルチュクの風景だけでなく、周囲の山々や地形まで一望できました。ヨハネさんも贅沢な場所で余生を過ごされたものです。イスタンブールよりだいぶ南で地中海気候の特性が強いセルチュクはとにかく日差しが強く、エフェス遺跡までの4kmやら、エフェス遺跡内での大興奮やらですでに10km近く歩きまくっていたので疲れていましたが、これも疲れが吹っ飛ぶような素敵な場所でした。
考古学博物館は本当に10分しか滞在できなかったのですが、ここまでも含めた気付きとして博物館のセキュリティの厳重さが挙げられます。ここでは大きな荷物預けを「必須だから」と一旦入場を止められてロッカーに入れてから入場するよう指示されており、それだけでなく、トルコ全域の博物館がとても小さなものでも必ず荷物検査(あの空港でやるやつです)がありました。この背景には考古学的に価値のある遺産が多いという以外にも、トルコ国内が非常に多様な民族が住む国家であることや、イスラム教徒の中に過激なテロ行為を働く集団もいることなど、ここまでセキュリティを強化するには多様な背景が推察されると小泉くんと議論しました。
さて、大満足のエフェス遺跡、セルチュクに別れを告げ、この度最後の目的地イズミルに向かいます。この時点ではセルチュクをもっとじっくり楽しむ選択肢もありましたが、イスタンブールもエディルネもセルチュクも、ほんの少しの滞在期間でも現地に行ったなりに行かないと得られなかった気付きが多かったので、エーゲ海に面したトルコ第三の都市イズミルにも行ってみたいと考えたからです。
さて、列車の切符をなんとか入手しますが、、、
ここでこの旅最大のピンチが訪れます。
炎天下をすっかり歩き通しで、またセルチュクの街には商店が少なかった※ので、完全に水不足になっていました。セルチュクからイズミルまでの電車は1時間半です。
(※トルコの街中には自動販売機がほとんどありません)
電車の出発時刻は12:09。12:04に駅から100mのところに商店を見つけ、小泉くんからは「僕が水を買っておくので、田邉さんはあの電車が本当にイズミル行きか他のお客さんとかに一応確認してもらえますか?」と指示されて、私は駅の方に戻ります。
この時確か12:06くらい?
駅を振り返った私は列車がすでに来て乗客が乗り始めていることを発見し、とりあえず自分も乗り込みます。そしてあることに気付きます。
(あれ、なんかこの列車、、、もうすぐにでも発車しそうじゃないか、、、?)
そして100m近くある店のドアを凝視して、小泉くんが全く現れない状況で、決定的なことに発車のベルが鳴ってしまいます。(この時、12:08)
私は祈るような気持ちで店のドアを凝視します。
(おい、知貴、おいこら、早く来い、大変なことになるぞ、早く来い!!!)
人に対してこんなにイライラしたのは久しぶりで、仕事中でもそこまではしないだろというほど、信じられないほどの回数舌打ちをしました。
そして決定的なことが起こります。まだ12:08:10くらいなのに、ドアが閉まり始めました。Wifiは彼しか持っていません。このままはぐれると大変なことになります。車掌のいる車両は遠く、相談しにいく時間はもうありません。
(乗るか、降りるか、どうするか、、、あぁ~もう考えるのめんどくさい!どうにでもなれ!!!)
私はこの一瞬の判断で、とりあえず閉まりかけたドアに右手を差し出して押し返しました。
すると日本の電車と同じ仕様で、安全装置が作動して、ドアが開き直しました。
しかし、まだ姿は見えず、もう一回閉まり始めたらさすがに諦めて降りようと思った時に、小泉くんは現れました。
私は人に対して声を荒げて命令形で何か言うことが滅多にないのですが、この時は、
「早くしろ!乗れ!」
と短く早く声を荒げて命令形で言い放ちました。
なんとか12:09発のイズミル行きに乗れて、この旅行最大のピンチを乗り越えました。
しかし、この場面を冷静に振り返ると、私がドアに手を挟んで止めてからいかにも電車に乗ろうとしている彼の姿が見えるまで30秒近くドアが閉まらなかったように思います。
恐らくですが、安全装置でドアの開閉が止まってから車掌が何かあったことに気付いて、駆け寄ってくる小泉くんの姿を視認して、ドアを閉めずに待っていてくれたのではないかと思います。
乗り込んだ直後の彼は私がここまで緊張と葛藤を強いられる場面を迎えていることを知らず、ギリギリで乗れたと思っていたっぽいので、これが如何に大変な場面だったかについてだいぶ話しましたが、海外に来てまでマナー違反で公共交通機関のダイヤを乱してしまったのですからちゃんと反省して欲しいですね(半分冗談です笑、乱す判断をしたのは私ですし)
ちなみにずっと前に書いた1日目の「公共交通機関が定刻より早めに出発する」という伏線はここで回収されます。(それにしたって、確かに定刻より早めに発車する習慣ってなんなんだろう?)
こんな映画のワンシーンみたいなやりとりを経て、列車はイズミルへ旅立ちます。窓の外には奇岩地形のような不思議な形をした岩岩が現れ、やはり異国の景色というのは退屈しません。地球の歩き方を読んでいたら、日本語を完璧に話せるトルコ人のおじさんが「楽しんでる?」と声をかけてくれて、彼はどうやら宮城県名取市で石窯焼きピザの店を経営しているとのこと。高速バスで異文化の方と怖いやり取りがあった後だっただけにその心遣いに温かい気持ちになりました。
さぁ、最後の都市、イズミルへ。次回が最終回です。
[23/10/19 23:03 by T.T]
トルコ歴史探訪⑤(3日目 エディルネ:イスタンブールオトガル〜セリミエモスク〜エスキモスク〜バヤズィト2世のモスク〜サライハマム〜エディルネオトガル〜イスタンブールオトガル)
こんにちは、田邉です。
1週間ぶりの投稿です。長い長いトルコ歴史探訪もここで折り返しの3日目です。
朝ジョグは昨日と逆回りをし、完全に暗かったですが、イスタンブールの2日目までを彩った風景たち(金角湾、ボスポラス海峡、ガラタ塔など)にお別れを告げます。
今日はエディルネの街に向かい、そして夜通し深夜高速バスに乗って起きたらエフェスです。どんな経験ができるかのワクワク感よりも、どんなトラブルが起きるかのドキドキ感が若干勝ります。
イスタンブール・カードの扱いも慣れたもの。最寄り駅から路面電車、地下鉄と乗り継いで、運命の地「イスタンブール・オトガル」に到着します。オトガルは高速バスのターミナル駅で、「イスタンブール・オトガル」は日本で言うと「バスタ新宿」みたいな場所です。
まずはめちゃくちゃドキドキしながらスマホを見せて高速バスのチケットを引き換えに行きます。係員のお兄さんが声をかけて教えてくれて、バスの会社もすぐに見つかり、バスの紙チケットも全く問題なく発行できました。3日目は高速バス移動がとにかく肝要になります。高速バスの予約は自分が担当していた、かつ、これまで初めて乗る公共交通機関でトラブルが起きなかった試しがないのでこの場面は心から安堵しました。ちなみに本当は紙チケットはもらわなくても何も問題はなかったのですが、どこで勝手のわからないイスタンブール式が発動するかわからないのでその辺は恐る恐るな感じで行動していました。
また、実はこの前日から困った問題が発生していました。私のスマホがWi-Fiに接続してもインターネットを更新できなくなったのです。3日目の命綱であるObilet.comの高速バスの予約情報がその場で出せないとか、英語も通じない土地なのに私の方ではGoogle翻訳を使えないとか、様々な弊害が出てきます。Obilet.comの予約情報は前日宿でスクショしておきました。
さて、チケット引き換えに安堵して、待望のロカンタにありつくことができます!
ロカンタでは当然のようにパンが付いてくるので、朝ごはんはスープを頼み、それをパンに漬けながら楽しみました。私が頼んだのはレンズ豆のスープで、これは朝ごはんには実にちょうどいい!
[↑夜明けの出発、さらばイスタンブール]
順調すぎて怖いくらいの感じで高速バスに乗り込み、20分くらい遅れてバスが発車します。しばらく外の景色を見ていたのですが、前日に見た”ニューイスタンブール”のオフィス街をすぐに抜け、地中海性気候のトルコの大地が見えてきます。かなり乾燥している様子で、作物を育てている場所は局所的で、何より地形がデカい!一つのゆるやか~な沢の幅が5㎞とか10㎞とかそんな感じです。
地形的にも気候的にもユニバーシアードで行ったスペイン・アリカンテにかなり似ていました。ロングディスタンス種目で「季節的耕作地」というのがあり、耕作地マークだけど通っていい場所で、ロングレッグでそのど真ん中を通ることが重要なルートチョイスだった、、、などと11年も経ったのにそんな細かいことをふと思い出して一人でエモくなってました。
さて、このバスはエディルネまでの道中10か所近くに寄るタイプだった、かつ最初に20分のロスがあったので当初2時間半と称していた時間を大幅にオーバーします。
エディルネ・オトガルからエディルネまでは今度は地域巡回型の路線バスに乗らなければいけないということでバスの表示の行先が若干不明瞭でした。小泉くんが荷物を預けてくれている間に路線バスの確認をしに行ったものの、翻訳も使えない状態の私はポンコツで、結局小泉くんの判断で「これか」と思う路線バスに乗り込みます。(路線バスなので、最初エディルネとは全然違う方向に発進し、すごく焦ったのも懐かしい記憶です)
30分くらいするとエディルネに着き、この時点で約1時間遅れです。
エディルネの街の見どころは一目瞭然です。名建築家スィナンの最高傑作”セリミエ・モスク”が街の中心に抜群の存在感で陣取っています。セリミエ・モスクは1568年から1574年の間に完成させたと言われています。なぜメフメトの支配から100年も経って、改めて「最高傑作」のモスクを造る必要があったのか、このモスクを巡る物語も面白いです。
アヤソフィアは6世紀にキリスト教徒が完成させたモスクで、当時の建築技術では最高レベルと言われるような大変大きなドーム型構造の建造物です。イスラム教徒もいくつも素晴らしいドーム型のモスクを建設していますが、ドームの大きさに関しては当時のイスラムに伝わる技術ではどうしてもこのアヤソフィアを超えることが出来なかったそうです。セリミエ・モスクはイスラム教徒が一から建設した中で「アヤソフィアを超える大きさ」の初めてのモスクです。ここに「キリスト教の建築技術をイスラム教が上回ることができた」という歴史的な意義があるそうです。
アヤソフィアはメフメトの築いた宗教的寛容さ・世界観を象徴する建造物ですが、このセリミエ・モスクの歴史的意義と当時のイスラム教徒の気持ちを鑑みると、やはりイスラム教徒の中にはキリスト教徒の建物が残っていることに対する敵対心やライバル意識を持つ人が一人もいなかったわけではないのでしょう。
トップの方針によって「宗教的寛容さがあった」とは記述されているかもしれませんが、こうした複雑な想いは人によって(もしかしたら一人の人の内面の中にも)グラデーションがあるのかもしれません。だからこそ「異教徒の建てたモスクなんて超えなければいけない」という発想を100年も抱え続けられたのではないかと、そんな想像をしました。
しかし、大変残念なことにセリミエ・モスクの内部はなんと改修中、、、
一部だけ公開されていたので「一部分だけみても大きさがわかるね」などと語ってはみたものの、やはりお互いに「こ、これは、、、さすがにキツいぞ、、、」と感じていたと後で話してわかりました。(セリミエ・モスクしかない街のセリミエ・モスクが観られなかったのです、、、)
ここで(なんとか気分を変えたいという想いもあり)セリミエ・モスクの前にあった、エスキ・モスクにも足を運んでみます。これが殊の外良かったのでお互いに一安心しました。エスキ・モスクの中は武骨というか質実剛健というか、そんな言葉で形容されそうな雰囲気を持っており、それまで見てきたモスクとはまた違う印象を与えてくれました。モスクの壁にはクルアーンの文字が模様として描かれることが多いのですが、ほとんどのモスクでは崩し過ぎてもはや原型がわからないような「柄」という感じで、装飾的な美しさを追求するような印象を受けていました。(スルタンの衣服などにもこうしたクルアーン文字を原型にした「柄」が入るのですが、崩し過ぎていて近くで見るまでそれが文字だとは気付けないものも多くありました)
しかし、エスキ・モスクの壁の文字はとても力強く、日本で例えるなら武道館に「質実剛健」とか達筆で書いてあるような感じなのです。モスクはスルタンたちが戦いの前に身を清める場でもありました。これまで見てきた中ではそうした場面で最も身が引き締まるような、まさに「武道館のような場所」という印象を受けました。
エスキ・モスクが建設されたのは1414年で、これはコンスタンティノープル陥落の40年近く前であり、ここはこれまで見てきたモスクと大きく異なる点です。
また1日目にルメリ・ヒサルのところで書いたコンスタンティノープル陥落目前まで戦ったバヤズィト1世、彼がモンゴルのティムールにアンカラの戦いで敗戦したのは1390年の出来事です。
バヤズィト1世はこの敗戦でモンゴル軍に攫われて幽閉され、最終的には自死を選んだと言われています。実はこのアンカラの戦いに敗戦してからしばらくのオスマン帝国は「空白の30年」とも言われており、かなり勢力的に落ち込んで再興には時間がかかりました。ここに書くことには史実的根拠は特にないのですが、もしかしたら1414年というのは冬の時代を過ごしたオスマン帝国が、ようやく大きなモスクを建設できるくらいに盛り返してきて、「もうあんな時代に戻ってたまるか」「これからやってやるぞ」という雰囲気だったのかもしれません。
エスキ・モスクの壁に描かれた力強い筆跡を見て、そんなことを感じました。
(ちなみにイスラム教は「習字」が有名で、日本の「習字」的な力強さも惹かれた要因かもしれないです。)
さて、なんとか気を取り直し、次の目的地へ。
この日は1日目2日目に比べたら全然歩かないゆったりプランだと話していたのですが、次の目的地は徒歩で2km先でした…(オリエンティアの「ゆるふわ登山()」感)
ちなみにこの日の夕食はイスタンブール・オトガルの先ほど食事をしたロカンタで食べる予定でした。エディルネからイスタンブール・オトガルに帰り、イスタンブール・オトガルからエフェスに出発するまでの時間は1時間半もあります。高速バスの予約の引き換え方はもうわかりました。ロカンタの営業時間も22時と事前に調べておき、さすがに、さすがにもう、圧倒的に完璧な準備です。
だからこそ「ここはパンで済ませますか」と合意して、超地元のパン屋さんへ。
この夫婦でやっているパン屋さん、若干申し訳ないことに、突然の外国人の訪問にめちゃくちゃ驚いている様子がありありとわかりました。ここまででもう何度も味わっていますが、この歴史探訪もマニアックな地域では悉く驚かれ、しかもここは歴史遺跡セリミエ・モスクだけが売りの街、エディルネ、、、まぁ、そういうことかと、、、
しかし、やはり彼らはホスピタリティに溢れていて、私はトルコ語が全くわからない中でとりあえずミートパイのようなパンを欲しいということだけジェスチャーで伝えて、あとは何度かハイハイと頷いていたのですが、食べやすいように一口に切ってくれた上にトレーに入れて、プラスチックのフォークを付けてくれました。確かにそのミートパイは直に手で持つにはかなり油っぽく、手が汚れなくてめちゃくちゃ助かりました。
ここからエディルネの田舎道を辿ります。これが想像以上に本当に和やかな田舎道!
地域の少年たちが遊ぶサッカー場以外何もなく、途中本当にちょっとした2級河川みたいなやつを橋で超えたのですが、この橋が何一つ気取っていなくて、しかも地元の工事屋さんが修理をしていたりして、大変良かったです。イスタンブールではなかなか見ることができなかった気取らないトルコの田舎の日常風景を見たようでした。小泉くんはしきりに「なんて落ち着くんだ!ここはまるで秩父みたいだ!」と故郷埼玉に想いを馳せて大興奮していました。
この橋を超えると目的地の「バヤズィト2世のモスク・医学博物館」があります。
ちなみに私も、「観光地のくせにまるで鶴見川河川敷の裏みたいなところにあるじゃないの、何これ最高!」と故郷に想いを馳せながらテンションMaxでした。
異様な熱を帯びたアジア人たち。本当に牧歌的なこの公園のようなモスク兼博物館に入場します。医学博物館の前身は医学学校とのこと。どうやらこの施設、モスクや学校を一体にした複合施設で、運営資金はワクフ制度を元にしていたそうです。ワクフとは「寄付」や「寄進」と翻訳されることが多い概念であり、「ワクフはイスラム教にとっての公共施設の運営費用に充てられ、都市のインフラ維持に欠かせない制度だった」とされているので、今の日本で言うと、ワクフは税金、この医学学校は国立大学医学部のような位置づけが近いかもしれません。
今まで単独で建っている有名なモスクしか見てこなかったので感覚がわかりにくかったのですが、ここが複合施設になっているということからして、信仰と実生活がより近かったのかもしれません。
また、ここでは医学博物館の展示が衝撃的でした。
その展示内容はイスラムの絵画における手術のシーンなどが何点かあり、かなり写実的な人形たちが置いてあり、手術のシーンを再現する、、、というものでした。この写実的な人形というのが、例えるなら佐渡金山にあるアレみたいな感じでちょっとゾッとする感じのやつでした。イスラム絵画は比較的平面的なのでそこまで想像力が掻き立てられませんが、やっぱり人形でリアルに表現されるとまるで自分が痛みを感じているかのような気分になります。ヘルニア手術、目の手術、分娩・出産シーン、「それもちろん麻酔なしでやるんですよね…」と目を覆いたくなるような展示が続きます。
それらを観た後に、医学の発達においてはもちろん解剖が必須のようで、例えば視神経は脳のどこに繋がっているかを表すような医学書の絵がありました。
「つまり、その、、、視覚が脳のどの部分が司っているかわかるためには、、、こんな時代にどんな実験をなさったんでしょうね…」と想像し、すぐに想像するのを止めました…
そんなこんなで大満足でエディルネ市街地に戻ります。
そういえばここは日本人が絶対に立ち入らないような場所ではじめはこの田舎道を歩き始めるのが怖かったのですが、あまりにも治安がいいのが印象的でした。そして後から地図を見て気付いたのはバヤズィト2世のモスクからギリシャの国境はもう2~3㎞と目の前だったことです。こんな感覚も、やはり大陸国家だからこそという感じがしました。
この日は深夜高速バスの移動でシャワーを浴びれない予定だったので、ハマム(銭湯)に行こうと話していました。トルコのハマムは垢すりで有名なので、できたらここで体験してみたいと思いつつ。
正直外から様子を伺ってもどういうサービス形態なのか全然わからず飛び込んでみると、やっぱり英語が全く通じない店主と寛いでいるお客さんがおり、小泉くんがタオルを借りられるかなど尋ねるも全くコミュニケーションが取れません。そこで店主はとりあえず600TLを受け取り、お金を払ったらとにかく上で着替えてこいというジェスチャーをして鍵を渡しました。我々は異国の地で全裸になり、タオルを腰に巻いて1階に戻りました。
店主は垢すり師を呼んで我々の対応をさせます。我々は陶板浴(岩盤浴のように温かいタイルが敷いてある)のような場所でちょっと待機させられ、いつ呼ばれるのかはわからなかったものの、他の客に倣って、身体にお湯をかけたり、陶板に横になって寛いだりしてみます。
サウナなどにも入りつつ、20分くらい待つと、垢すり師に2人とも呼ばれます。先に小泉くんが垢すりをやってもらい、私は見学する形でした。すると、垢すり師、うつ伏せに横たわった彼の背中を大きく「パーンっ!」といい音で叩きます。久しぶりに見ました、あんな風に人が叩かれているのを。思わず笑っちゃいました。
そしてトルコ語で「仰向けになれ!」「ここに座れ!」「このくらい痛くねぇだろ!」「もっとだ!」と多分そんなことを10分間の間に言いながら、時々頭も「パーンっ!」と叩かれたりしながら垢すりを終えました。途中ストッキングのようなスポンジを使って巨大な泡を身体に落としたり、サービス満点です。そんなストロングスタイルコミュニケーションも完全に笑わせに来てる、サービスなのでしょう。他の客にもそんな感じだったかはわかりませんが、垢すり師さんなりにこの言葉も通じず緊張で困り顔をしているアジア人を和ませようと、笑わせようとしてくれたのかもしれません。
実際時々痛かったものの、垢すりはすごく気持ち良くて、やってもらっている間も終わってもずっと笑顔でした。終わったら身体を拭いて、店主がレモンソーダを用意してくれて、リラックスできるタイプの椅子の上で寛いでいたら、もう眠ってしまいたいような心地よさです。トルコの方が当たり前にいる場所でこんなに寛いだ気持ちになったのは初めてかもしれません。
それこそ、こんなに相手と身体接触しながら「委ねる」経験って日本でもほとんどしてないかもしれません。相手を信頼しきって「委ねた」この時間が寛いだ気持ちを生んでくれたのかもな、などと思いました。
この旅を通して「メルハバ(こんにちは)」「サオール(ありがとう)」以外のトルコ語を本当に全くと言っていいほど使えませんでしたが、ここでトルコ語学習Youtubeのギュネシ先生が教えてくれた「ギュゼル!」を使ったら、垢すり師のおじさんは「オー、ギュゼル?」と言ってニコニコと喜んでくれました。
「ギュゼル」とは「最高、きれい、いいね、やばいね」などなんでも使える便利ワードとのこと。こちら言葉は通じませんし、しかもシャイですし、なかなかこの感謝を伝えることができませんでしたが、この「ギュゼル!」を言えた時はちゃんと通じ合えた感触がありました。幸福感の溢れる経験で非常に良かったです。
帰りのエディルネ・オトガルまでのバスはまたチケット購入場所がわからず、結局タクシーを使いましたが、190TLとかなりリーズナブルで良かったです。15分くらいで到着しました。やっぱり巡回バスはだいぶ寄り道をしていたようです。
エディルネ・オトガルで荷物を受け取り、サービスエリアのような場所でチャイ(トルコの紅茶)を飲み、エディルネを出発します。帰りのバスは出発当初、冷房が効かなかったり、あとバスの添乗員が何か重大な忘れ物をした様子でしばらくかなり焦っていたり(途中絶対に止まるはずのない場所で停車し、別の添乗員が乗り込んでくる…)、細かいトラブルはありましたが、帰りはイスタンブール・オトガルまで途中停車地はないので時間はほとんど遅れず安心です。
時間はまだ少し明るい19時でちょうど夕暮れ。地中海気候の砂漠のような大地に沈む夕陽を眺めていると、同時についさっき上ってきた月も見えてきて、沈む太陽と月が同時に見えるという最高の眺めでした。この圧倒的に大きくて開けた大地でないとこんな風景は見えないことを思い起こさせます。
バスの中では時間があったので小泉くんとここまでの総括をします。私は次のような話をしました。一言目は確か「どこかの国に”住むだけ”であればネイティブレベルの会話が必要な場面なんてどのくらいあるのだろうか?」という疑問を口にしたように記憶しています。
私はトルコでは英語がほとんど通じないと知ってから気負っており、(かといって全然時間は取れなかったので)先述のトルコ語会話Youtubeなどを出来るだけ勉強してはいましたが、実際にはトルコ語を全く使えなかったし、全く使えなくても料理は注文できたしお金の支払いはできたしハマムにも入れました。
もちろん今の仕事は日本語をネイティブレベルでできるからこそ成り立っていますし、その他友人関係なども、もし日本語ができなかったら少し味気ないものになってしまうかもしれません。
しかし、実は日本に住んでいたって、例えばコンビニやスーパーで買い物をしたり、飲食店に入って何かを注文したり、ネットでチケットを手配して映画館に行ったり、精々今回の旅でトルコでやっている程度のコミュニケーションをするだけの休日も結構多くあります。
この旅を通して「なんとかなった」という感触とともに、もちろん「本質的な交流はできてないよな」という残念さも感じています。しかし、日本にいたって日本語ネイティブの言語が必要なほどの「本質的な交流」なんて普段どのくらい意識してできているんだろうか?
すごく逆説的にですが、そんな疑問を抱きました。
言葉がわからなくたって住むなんてすごく簡単なことかもしれないし、言葉がわからなかったらどんな憧れの場所に住んだとしてもその生活はとても味気ないものになってしまうかもしれないし、そしてどんなに言葉がわかっていたとしても自分の態度によって人生はいくらでも味気ないものになってしまうのではないか、そんなことを訥々と考えていました。
さて、そんなことを話していたらいつの間にか外は真っ暗になっており、バスはイスタンブール・オトガルに到着します。さぁ、待望のロカンタへ!!!
とその前にエフェス行きの高速バスをまずは引き換えに行きます。
なんたってここをミスしたらエフェスに行けない。
しかし、しかし、しかし、しかし、、、、、
ここでスーパー大問題が発生、、、、、
なんと22時発エフェス行きの高速バスは予約後にキャンセルされていると受付で言われてしまいました。確かにObilet.comでこの便を予約した時に少し割引のある「OPEN TICKET」という形式しか選べなかったのでこれはなんだろうと疑問に思っていました。
Obilet.com内の注意書きを読むと仮予約状態で当日現金を支払って引き換える方式、ということまでは読み取っていました。しかし、恐らく後から予約者が入ったら自動キャンセルされるような、そんな方式だったようです。(それゆえの3割引きか、、、)
それでももう我々はエフェスに行くしかありません。Google翻訳も使って「エフェスに明日の朝に行きたいです。他に予約できるバスはありませんか?」と訊いて必死で粘ります。
そして受付の女性、とても有能な方でエフェス行きのバスを代わりに予約してくれました。これには大変安堵しました。
しかしほっとしたのも束の間、次に言われた女性の一言に我々は驚愕します。
「あと10分でそこにある21時発のバスが出ます、すぐに乗ってください」
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、え?
えぇぇぇぇーーーーーーー!
ロカンタ行けないどころか、今夜の夕食すら食べられない!
なんとか当初通りの22時発のバスの座席は空いてないのか食い下がるもここは聞き入れられず、、、私はひとまずトイレにだけ行かせてもらい、バスに乗り込む際はもし最悪トルコ料理が全く体質に合わなかった時のために、と保険で持ってきたカロリーメイトを取り出しました。
あぁ、夢にまでみたロカンタがまたしても、、、(しかも世界三大料理の場所に来たのに夕飯カロリーメイトなの、、、泣)
「メシより歴史、メシより経験」そんな言葉を脳内で反芻しながら疲弊した私たちを乗せて、バスはエフェスへ向けて走りだします。
ちなみにバスではなかなか記憶に残る嫌なトラブルが起こります。
高速バスの中には黒人の大学生のような男女5人組くらいの集団が付近の席にいて、時々騒いでいたりしたのですが、バスが発車して10分くらいしてから、その中でもかなり体格のいい女性が眠りかけていた私の頭を軽く触り、動かして席番号を確認するような仕草をしました。なんだったんだろう?席番を探していたのだろうか?と疑問に思います。確かにその女性は乗車直後から乗務員と話をしたり、何度か席を変わったりしているな、と思ってはいました。
そして、そこからさらに20分くらいしてその女性は急に話しかけてきます。全くわからない言葉で恐らく「お前は席を間違っているだろう、番号をちゃんと確認してそこをどけ」ということを言っていることだけはニュアンスでわかりました。そして、説得しているというより感情に任せてまくし立てているということも雰囲気でわかりました。
せめて簡単な英語ならわかるだろうか、と何とか「Have I mistake?」と”ミステイク”のところを強調してコミュニケーションを取ろうとするもやっぱり彼女は彼女の国の言葉で感情的にまくし立ててきます。
そもそも彼女は隣り合わせで座っている小泉くんでなく私だけに言っています。ここで小泉くんの隣に彼らの中の一人が来たとしてどうしたいのか?なぜ乗車してすぐに私に文句を言わなかったのか?そういうことまで含めて全く意味がわかりませんでした。
最大の問題は、そんな状況でもこの人と8時間密室で一緒に過ごさねばならないことです。何としてでも穏便に済ませねばなりません。
何度も自分のチケット31番と席番号が合っていることを確認して、これまでのホテル対応なども踏まえると、もしかしたらバス会社側が31番の席番号を誤って2枚発券してしまっている可能性もあるのではないか、そんな可能性に思い至りました。だからこそ彼女は頭を触ったり、知らない言葉でまくし立てたり、感情的で失礼な態度を取ってくるのではないかと。なので一旦、自分が正しい番号の席に座っていることを確認してもらったら後は乗務員さんにトラブルについて相談しに行こう、そんな落としどころかと考えました。
後ろの男性は彼女に比べれば冷静な雰囲気で「君の席番号、確認しなよ、間違っているんだと思うよ」とでもいう感じにシートのところをコンコンと叩くジェスチャーをしてくれたので、彼に私のチケットを見せると、何やら感情的になっていた女性に彼から話してくれました。そして、私がGoogle翻訳で先ほどの乗務員への相談を提案する準備をしていると、彼は「もういいよ」のジェスチャーを返しました。
ん?どういう意味?なんか別の問題発生?
とその後どのようなことを言われるのか一刻身構えていましたが、その後彼らは話しかけてこず、本当に「もういいよ」だったようです。なんとも釈然としない事件でした。
その後も何度かバスの休憩時間があったりしましたが貴重品は肌身離さずしっかりと身に着けました。何か復讐や報復がないか気になって仕方がなかったからです。このバスがイズミルという街に着いた時に彼らが降りて行って、本当にホッとした気持ちになりました。
それにしても、どうして相手が正しい席番号のチケットを持っていたら引き下がるような状態であそこまで感情的に文句を言い、まして見ず知らずの相手の頭を触るなど相手に失礼な態度を働いていいと思っているのか、理解ができませんでした。あの対応に不満はいくらでもありましたが、文句を言いたくても彼女は言葉が通じない以上に対話する姿勢すら持っていない。そして、いくら文化圏が違うとはいえ、見ず知らずの相手の頭を触るような常識のなさを持っている人物とこれ以上関わりたくなかった。
トラブルを避けるために何も言わなくて正解だったともちろん思っていますが、そういう感情を飲み込んでいました。
そして、この事件は、これまでの3日間で体験したこととは全く異なる意味で、この世界では自分たちが圧倒的にマイノリティであり、それはこんなにも心細い気持ちになるのだということを強烈に知らしめました。男女とも自分たちより体格が良く、人数も勝てないような状況で、何かよくわからない理由で責められて、挙句謝罪の一言すらなく、解決したのかしてないのかわからないような態度で「もういいよ」で終わらせられる、正直とても怖く、そして悔しかったです。
冷静に振り返れば、「いやぁ、海外で言葉の通じないヤンキーに絡まれちゃったよ」くらいの話なのですが笑、これもいい経験・気付きだったのでちょっと率直な気持ちを言葉にしてみました。
初回に書いた通り、やっぱり深夜高速バスというのは旅行上級者が使う交通手段というのは予約トラブルと乗客トラブルの二連奏を経験して、本当なんだなぁと改めて実感しました。これらは確実に私の体力とメンタルを削り、それでもバスは走ります。
そして私は眠りに落ちます。こんな想いをしてまで行くエフェスはきっと最高だと信じて…