Yolc Diary


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Diary

[23/10/12 09:00 by T.T]
トルコ歴史探訪④(イスタンブール2日目:イェディクレ要塞博物館~テオドシウスの城壁~1453パノラマミュージアム~ガラタ地区~スレイマニエ・モスク~地下貯水槽~夕食)
こんにちは、田邉です。連載第4話にして2日目のトルコ旅行行程について書いていきます。

異国の地でもぐっすりとした睡眠を経て、さて、ようやく2日目がはじまります。
昨日迷い込んだギュルハネ公園を北に抜けて、トルコ建国の父”ムスタファ・ケマル・アタテュルク”の像を横目に朝ぼらけのイスタンブールの街を、今度は旧市街地側から望みます。金角湾とボスポラス海峡を隔てて、今度はガラタ地区やアジア側がまた感動的に美しい。日の出まで拝むことができて感無量です。そのまま旧市街地の沿岸を南側まで半周して登り、アヤソフィアにおはようを言いながらホテルに戻ります。素敵な朝ジョグでした。チーズが豊富なホテルの朝食も最高で、これは幸先いいぞ!と思った矢先、トラブル発生です。

[(↓)アヤソフィアにおはようジョグの様子]
2日目はレンタサイクルを借りてイスタンブールを反時計回りに1周し、序盤にフェネルという街を楽しみながら、テオドシウスの城壁5.7kmを自転車で辿ろうとプランしていたのですが、その日フロントの担当者からは「ない」と言い切られてしまいました、、、(Booking.comには「有」って書いてあったのになぁ、、、)
一旦話し合ってプランBに切り替えます。最初にバスを使って当初予定とは逆の時計回りに回っていくことにしました。本日最後に行こうと思っていたイェディクレ要塞博物館が今日最初の目的地になります。そしてその後は、、、もういっそテオドシウスの城壁を歩いて辿り、なんならその後のフェネルの街並みなども歩きながら観ていこう、、、というプランになりました。これはどういうことかというと、イスタンブールの中でもちょうど旧市街地から6㎞圏内くらいの扇形が過去にコンスタンティノープルの街があったエリアなのですが、その約三分の二を全部歩こうというプランになったということを意味しています。
このあたりの判断、さすがにCC7入賞チームの1走と7走です。
「体力で殴れば大体勝てる」といった、すぐに脳筋(脳みそ筋肉)の思考をしてしまいます。まぁ、この旅に行く前からすでに(深夜高速バス使う話をし始めた頃から?)「体力を削ってでも出来るだけ多くの経験を蓄積していく」そんな優先順位の旅にはなることはとっくに合意していたので、そういう会話を事前に出来ていたことが現地での判断を素早く迷いないものにし、今回の旅を満足なものにさせる大きな要因だったと思います。

そう決めたら早速ガラタ橋近くのバス停に行きます。小泉くんがイスタンブールカードをチャージしていると、ここで何やら頼みもしないのに券売機の操作を(しかも訳のわからない方向に)誘導・指示してくる少年が現れました。もしや、とは思いましたが、なぜかチャージ操作を終えた末に全くわからないトルコ語でチップを要求されました(言葉はわからなくてもお金を要求している人ってわかるものですね)。
払わず無視してそこを立ち退きました。
要求している金額は5TL、日本円にしたって30〜40円、我々のような成人男性の会社員が失ったところで痛くも痒くもありません。彼はまだ7,8歳に見えましたし、他に稼ぐ手段もない状況だとは思うので、そんな少額のチップでも彼の明日は少し良くなるのかもしれません。
だとしてもただただ"関わってはいけない"そんな感覚で立ち去りました。別に"こちらがありがたがってもいない方法で押し売りされてそれにお金を払うことは彼のためにならない"なんて、そんな殊勝なこと考えていたわけじゃもちろんありません。とにかく"関わりたくない"、それだけ。
異国の地で経験するこの感覚は、この旅の中でも何度か出会うことになります。

さて、バスに揺られてウトウトしていたらイェディクレ要塞博物館にはすぐに着きました。ここはテオドシウスの城壁の南の端にある要塞で、高さ20m程度の城壁が星型に砦を成しており、壁の上部はビルの屋上のような構造となっています。この屋上部からは砲撃用のスリットが空いていて、壁に取り付いて登ろうとする敵軍を上から攻撃可能、という特に軍事用途で攻撃力・守備力の高い構造をしています。1453年の戦いに際してもコンスタンティノープル軍のコンスタンティヌス11世や主力兵士はここで戦ったそうです。
イェディクレ要塞博物館はGoogleマップでの評価も4.3とそこまで高い訳でもなく、正直大して期待していなかったのですが、今回の旅で3本の指に入るほど素晴らしいスポットでした。

[(↓)城壁を見上げる小泉氏]
この高くて分厚い城壁を下から見上げてオスマン帝国軍兵士の絶望を想像するのも一興でしたが、なんと嬉しいことにこの壁の屋上部にも入ることができたのです!
昨日のルメリ・ヒサルではちょうどこんな砦の屋上みたいなスポットに入りたいなぁ、と眺めつつ立入禁止で入れないという経験をしていたので、屋上に続いてそうな暗い階段を登りながらも「いやいや、まさかそんな」「え、まだ上がある…ってこと」「え、ちょ、え、そこも、、、」「この先はまさか、、、」「キターーー!!!」と所々ちいかわ化しながらテンションを上げていき、屋上に出た時はボルテージMAXでした。
屋上に出たからこその気付きはたくさんありました。まずこの要塞を起点にテオドシウスの城壁5.7kmが伸びていることを視認できたこと。「うわっ、本当にずっと続いてるよ!」と思わず声が出るくらいで、やっぱり人が意思を持って造ったデカい構造物って感動しますね。
コンスタンティノープル軍の観ていた風景や気持ちを味わえたことも素晴らしかったです。こちら側からはアヤソフィアのある旧市街地やガラタ塔まで、コンスタンティノープル一帯が一望でき、まさに国防の拠点だなという感じでした。この20mの絶望的な壁の上にいられるのは心強いようでもあり、かといってこんな狭いところをオスマン帝国約10万人の軍隊が取り囲んで常に隙を伺って睨まれていたと思うと心細くもあり、なんとなく心細さの方が勝ちそうです。
また、前日空港に着いた際やガラタ塔に登った際に、都心らしい高層ビルがいくつか遠くに見えていたのですが、我々が対象範囲にしたような歴史遺産群からは外れていて、どこにあるのかがよくわかりませんでした。しかしこのイェディクレ要塞からはテオドシウスの城壁の外側の風景も一望できて、そこを境に一気に歴史的街並みの雰囲気が薄まってビジネス街的な高層ビル・オフィス群が見えてくるということがわかりました(私たちはその街並みを勝手に「ニューイスタンブール」と名付けていました)。
ここはある意味ガラタ塔よりも「今のイスタンブール」がわかる展望台なのではないか、そんな印象する受ける素晴らしい場所でした。(評価4.8くらいに修正すべきです)

ちなみにここも例によって観光客来るわけねぇだろスポットの一つのようでしたが、地元に住んでるらしきおじ様とワンちゃんが2人で仲良く散歩していました。このワンちゃんが人懐こい系で我々のところに空のペットボトルを持ってきてくれたり、かわいかったので犬好きの私と小泉氏はしばし戯れて癒されました。

[(↓)城壁の上に出てコンスタンティノープルの街を一望]
[(↓)ワンちゃん(かわいい)]
さて、圧巻の要塞博物館に別れを告げ、テオドシウスの城壁辿りが始まります。
これはまたお客様向けのイスタンブールとはかけ離れた様子の街並みが続きます。住宅地の裏のような道路を歩き、どの家の窓からも大家族の洗濯物がぶら下がっています。時々人通りが全然なくて怖いなと思う道路もあったものの、高齢の男性女性が荷物を持ってのんびり歩いているのによくすれ違い、治安の悪い感じはそれほどありませんでした。
三枚の城壁が(特に一重目が)どれも埋もれていて少しわかりにくいのですが、その難攻不落っぷりは二重目三重目の城壁を見るだけでも一目瞭然でした。(以下、距離は目測ですが)まず一重目から二重目は幅・高さとも3~5m離れていてこれを一っ飛びで超えられたオスマン戦士はまずいなかったことでしょう。二重目と三重目は少し幅が縮まって幅・高さとも2~3mといったところ。しかし、この城壁、一部観光用にか二重目三重目の構造に入れるようなところが存在して、三重目の城壁は現在でも高さ10m、恐らく二重目でも7~8mといったところ。城壁全体がどのくらい埋まってしまったのかはわかりませんが、少なくとも二重目の城壁に登れたところで目の眩むような高さで、尚且つ三重目の城壁の裏にいるコンスタンティノープル兵はこの至近距離から攻撃をしてきたはずです。これは実に厳しい。
このテオドシウスの城壁が伸びる5.7㎞、今では幹線道路が走っており、本当にず~っと辿れたのですが、実は結構アップダウンがあり城壁の高さも場所によって変わりそうです。メフメト2世も、いえ、もしかしたらバヤズィト1世の頃から、この壁を舐め回す見つめ、どうやって攻略するかずっと考えていたんじゃないかなと思いました。(もしかしたら今まさに我々がやっているように、壁に沿ってずっと歩くなんてこともやってた可能性ありますよね)

イェディクレ要塞から約3㎞、1453パノラマミュージアムに到着です。
何度も登場しているのでこの記事を継続して読んでくださっている方には説明不要かもしれませんが、「1453」とはコンスタンティノープル陥落の年です。ここはつまりコンスタンティノープル陥落の戦争についての資料館です。そして我々がコテンラジオ深井さんの語りだけで熱狂したあの戦いが、なんとエンタメ化され、まるでプラネタリウムのような劇場でパノラマARで上映されるというのです!

実はこの施設を最初に知った時、ビザンツ帝国が滅ぼされた歴史を、思いっきりメフメト2世をスーパースターにする形でエンタメ化するのOKなんだなぁ、という感想を抱きました。まぁ、日本でも大河ドラマなど歴史をエンタメ化するのなんて当たり前なのですが、記事の第1回に書いた通り「オスマン帝国≠トルコ共和国」という認識にセンシティブになりすぎていてそういう感覚になったのだと思います。
ただしこういう行き過ぎた配慮みたいなのも含めて、歴史認識なんてその地に住んできた人しか絶対にわからない感覚があるよなと思いました。
私の考えたことを日本版で例えると「関ケ原で負けた西軍(石田三成など)の子孫に申し訳ないから徳川家康を主人公にしたエンタメ作品なんて作りません」くらいの感じでしょうか。
現代日本を生きてきた我々からしたら、ちょっと滑稽に思えるくらいの配慮具合だと思いますが、海外の人は変に勉強したら私と同じような変な気遣いをしたりするんじゃないかなぁ、とか。前の例はさすがに極端過ぎましたが、もっと近い歴史、例えば第二次世界大戦をエンタメ(映画・小説)として描けるようになったのは日本国内ではいつ頃なんだろう、とか。

あとまさに今この例を書いてみて気付いたのですが、もしかしたら一番わかりやすい例は、今年映画バービーの公式Twitterが炎上した件かもしれません。原爆投下に対する日本人の歴史認識のまだまだセンシティブな部分の温度感と、そのセンシティブさや温度感を見誤ってしまった海外の(よりによってアメリカ人の)方が、日本人にとってまだまだ負の歴史として抱えていて冗談にできないものを冗談で笑い飛ばそうとしてしまった。その国を生きる人とそうでない人の歴史認識の感覚・温度感が異なっていたために起きた残念な事例かもしれません。
ある国にとって(もしくはある人にとって)、過去を過去にできるのってどんなタイミングなんでしょうね。永遠に答えの出ない問いかけのように思いますし、だからこそそういう「もしかしたら踏み込んではいけないのかもしれない」というセンシティブさ・慎重さは持ち続けたらいいのかもしれません。


…すみません、現実に戻り、執筆を続けます。
やっぱりパノラマARで見る映像美は胸ときめいて素晴らしかったです。
小泉くんはここでも作り手のパワーを強く感じ、感動したとのこと。
私としてはコテンラジオの語りによる事前情報、そこから興味を持って自分で調べた歴史書の記述、そしてこのド迫力の映像の三連奏でこの15分間を本当に楽しみ切れたなと充実感がありました。そしてやっぱりエンタメのパワーってデカいなと思いました。何せ私がこの歴史を追うきっかけになったコテンラジオも一種のエンタメですから。
先ほどの歴史認識の話は「見誤る罪」の話だけでは少し片手落ちで、それこそ「全く知らないことで配慮なく傷つけてしまう罪」も存在すると思います。やはりライトな形から興味を持って知るきっかけになる大衆向けエンタメ作品はその良性・悪性の両面を論じないといけないよなと思います。

この後は周囲から目立っていたモスクに立ち寄ったりしました。13時頃で礼拝が始まっていました。小泉くんがぐんぐん進むので私は焦っていました。半ズボンだったからです…
実は前日夜、自由に洗濯できるわけではないことがわかったので、服装計画が若干狂ってしまい、また昨日のアヤソフィアやスルタンアフメト・モスクでは両方とも貸出の受付があったのでそういうものかと油断していました。しかし、あれはスーパー観光地のイスタンブール旧市街地だからこそ実施していたサービスであって、その辺のモスクではそんなものなかったのです。
入り口で叱られたら彼には申し訳ないが退却か、と何も言われなかったので少しだけひっそり入って、数分で立ち退きました。以前、草津の温泉に行った時に地元のおじいさん数名が入浴マナーについて誰彼構わず厳しく𠮟責していた場面を思い出しました(威張りたかっただけじゃないかとは思っていますが)。基本、自分は文化のわからない相手のセンシティブな領域を侵してしまうことを恐れているみたいです。

だいぶ疲れてきて「エディルネ門」。ここはメフメト2世がコンスタンティノープルに入城する時の一番有名な絵画に描かれている門です。本当はもっとメフメトの入城シーンを想像したりして感じ入りたかったのですが、若干位置が不明瞭でここかな?という感じで、あとになってから「やっぱりあそこだった~」と気付く感じでした。惜しいですが、疲労も出てきていたのでこれはしょうがないですね。

そこからさらに歩き、城壁全景の模型がある博物館など立ち寄り、14時過ぎにようやく金角湾です。「城壁を歩き切った~!!!」城壁は5.7㎞に渡って本当に途切れることなく海から海まで続いていました。(本当、ビザンツの方々こんな馬鹿でかいものをよく作りましたよ笑)
そこから2㎞くらい歩いてフェネルの街のロカンタ(お惣菜屋兼大衆食堂みたいなところ)でヘトヘトの昼食です。じゃがいもと羊肉の煮込みケバブをいただきました。ちなみにトルコ料理はデフォルトでパンが無限の如く出てきます。ついつい食べ切ろうとしてしまって、毎回最後の3切れくらいになってから「あぁ、元々食べ切る仕様じゃなかったよな」と後悔します。
そしてここでトルコ滞在のお供とも言えるAyranについて紹介していきましょう。
Ayranとはヨーグルトに水と塩を足して混ぜたもので、小泉くん曰く自宅でも簡単に作れるとのことです。塩気がスポーツドリンクのような風味で、最初はヨーグルトから塩味がすることに慣れずビックリしましたが、すぐに慣れて暑い日差しの中をこれだけ歩いた身体にキンキンに冷えたAyranは深く大変染み入り、すぐにお気に入りの飲み物になりました。このAyran、皆さんにも味わって欲しいくらい最高の飲み物なのですが、この旅において複数のトラブルを引き起こすことになります。後述。

[(↓)三重の防壁、これが5.7kmに渡って続きます]
フェネルという街はキリスト教文化が手厚く守られています。
この街に象徴的な建物として1454年から現在に至るまで現役で運営されている「私立フェネル・ギリシャ中学校・高校」(現在の名称)が挙げられるでしょう。コンスタンティノープルを征服した後、多くの人々がコンスタンティノープルからイタリアやギリシャに移住してしまったため、メフメト2世は、言葉や文化の自由を保証した上で、この地にギリシャ人を呼び戻しますことにしました。1454年に建てられた学校は、コンスタンティノープル主教座に属するアカデミーとして設立され、神学、哲学、文学を教えていました。まさしく宗教的な寛容さを象徴する存在で、メフメトはこのキリスト教色が色濃く残るフェネルの街を愛していたと言われています。
ここも散策してみたかった風景の一つで、まるでヨーロッパにいるようで素敵な雰囲気でした。ただし、ガラタ地区のヨーロッパ風の街並みと何が違うのかと言われれば、そこに気付いたり語ったりできるほどの見識はなく、やっぱり何かを楽しむためには教養が大事ですね。そこだけがちょびっと悔しいです。
またこのあたりで我々、ちょっとした幸運に気付きます。フェネルの街はまたとんでもない坂の街(ギリシャ人学校などは斜度20度を優に超えるだろう坂の上でした)。こんなのレンタサイクルで来ていたら押すしかない、、、というか仮に当初計画通り反時計回りに回っていたとしたら、この街を通過した後にエディルネ門やパノラマ1453ミュージアムやイェディクレ要塞を見に行かないといけないと思って急いでいるわけで、坂の上にあるいろいろな名所を諦めて先を急ぐ姿が容易に想像できます。
なんという巡り合わせでしょう、レンタサイクルが借りれなかったことも、回り方を時計回りに変えたことも、全部プラスに作用しました。本当にラッキー!

[(↓)フェネルの街並み]
[(↓)ギリシャ人学校]
その後はローマ時代からあるという水道橋を見て、付近の公園にあったオスマン帝国スルタン大集合銅像に盛り上がり、スレイマニエ・モスクに向かいます。
しょうもない余談ですが、スルタン大集合銅像のセンターは馬に乗ったメフメト2世で、下から見たら馬の下腹部がとても写実的に描かれていることに感銘を受け、それを”最も幼稚な言葉で”表現しました。そこはさすがのMr.小泉、抜け目なくその発言を流さずにしっかりと拾い、日本人2人誰もわからない言葉を繰り返しながらにたにたと笑います(気持ち悪いけど息はピッタリ)。

スレイマニエ・モスクはオスマン帝国で最も有名かつ優秀なスルタンの一人と名高いスレイマン1世の建設したモスクです。確かに歴史弱者状態だった高校生の私も、メフメトもバヤズィトもムラトも知らなかったものの、スレイマンだけはその名前を知っていました。
この内装がまた印象的。美しい宝石箱のようなブルーモスクと対照的に、華美さはないものの濃緑や薄朱色を局所局所に配置した色遣いは、例えば現代でもこの柄の服を出したら流行するのではないかと思うほど洗練されたデザインでした。
小泉くんはこのスレイマニエ・モスクを「最も好きかもしれない」と言っており、この後比較のためブルーモスクやアヤソフィアに入り直そうとしたのですが、礼拝の時間が重なったり、私の半ズボン問題が尾を引いてしまったりで諦める結果となり、若干申し訳ないことをしてしまいました。
ちなみにこのスレイマニエ・モスクで我々無料配布の全日本語訳クルアーンを入手します。あまりの気前の良さに「え、本当、本当に無料、、、?」と戸惑いながら受け取りました(まだ読めていないのですが、いつか、、、)。

この後はグランドバザール、地下宮殿と回って、夕食候補のロカンタをホテル付近の街中で見繕ってフィニッシュしました。
まずグランドバザールですが、有名観光地にもかかわらず一瞬で通り抜けてしまいました。もちろんトルコ絨毯の店などもありましたが、ほとんどの店がお菓子の叩き売りやNIKE・adidasのアパレル・シューズの安売りなどで、「あれ、これって、、、アメ横?」となってしまい、また喧騒も疲れてしまい、さーーーーっと通り過ぎました。
地下宮殿は前日開館時間を間違えて観られなかったのでちょうど良かったです。これまたよく地下にこんな貯水槽を作ったものだと感動する馬鹿でかさのインフラでこれがビザンツ帝国の時代に掘られたなんて、人間の意思が一つに揃った時のパワーというものには感銘を受けます。
人間は食糧を2~3週間食べなくても死なない、でも水分は4~5日摂らないと死ぬ、と言われていますよね。私は仕事で少し利水治水事業に関わっているのですがこうした水路や貯水池が整備された時期を知るたびに古の統治者の水確保に対する知識や建設技術、そしてなんとしても生活インフラを確保せんとする執念や発想力に感動してしまいます。
この後先述のアヤソフィア、ブルーモスクからの退却を経て、辺りも暗くなりこの時20時。今日本当にコンスタンティノープルの三分の二を回れたことに大満足しながら、ホテルに荷物を置いて夕食に繰り出します。昨日は夕食に1500TLも使ってしまったのを反省して、ホテルからも近いロカンタを見繕っておいたのです。「よっしゃ、今日は気兼ねなくトルコ料理食べるぞ〜」と息巻いていくものの、なんとロカンタ、20時閉店、、、!
神はどうして我々に試練を与え続けるのでしょうか。(この場合の神はキリストかアッラーか別の日本の八百万の神か波紋を呼びそうな記述)

この日は昨日にも増して歩数49202歩(42.7㎞)!もちろん体力の限界です😵
もうこれ以上こだわって探す気力はなく、また店のキャッチのお兄さんからも「ウチも21時には閉店予定だから決めるなら早めに」と言われ、とりあえず近場の、昨日と比べると随分庶民的な価格のケバブ料理屋台に入りました。
私は下にヨーグルトソースとポテトフライが入り、主にトマトソースで味付けたややジャンキーな焼きケバブとAyranを頼みましたが、ここで気付いたことがあります。ヨーグルトってとっても重いんです。Ayranはもちろん半分以上がヨーグルトですし、ケバブの下に入っているというヨーグルトソースが、ヨーグルトソースではなく、ヨーグルトそのもの(ブルガリアヨーグルトが料理の下に200g仕込まれている様子を想像してください)。
ロカンタのパンも残さないように食べたあのお昼ご飯は14時半くらいで、こんなに運動したにも関わらず、実は2人ともそこまでお腹がすいてなかったのです。
そもそもヨーグルトを200g食べたらある程度お腹いっぱいになるのに、そこにお肉とフライドポテトと、そして例によってパン!またやっちまいました。やっぱり出された食べ物を残すのは苦手で、パンもソースに漬けながら4切れも食べていました…
そしてさらに小泉くんは野菜果物不足にとスイカ(70TLとお手頃価格)を頼んでくれたのですが、付け合わせに控えめな小皿か何かで来るかと思ったいたのが運の尽き、、、メイン料理と同じくらいの面積の皿に、食べるのに3口は必要そうな大振りなカットスイカが10切れくらい入っていました。
雰囲気が悪くなりそうでお互いに言わなかったのですが、絶妙にストレスフルな食事になってしまい、さらに今度はフードファイト要素まで加わり、またしても「アジア人はなんであんなにつまらなそうに食事をするんだ?」って感じになっていたと思います。(もちろんケバブとヨーグルトの相性もよく普通に美味しかったんですけどね笑)
さすがに「メシより歴史、メシより経験」の旅です。「とりあえずあのロカンタで良くね」という判断まで含めて徹底して食事の優先度が低い…
フードファイトを終えて、部屋に戻ると、そさくさとシャワーを浴び、明日の準備をしながらエフェスビールを飲んで人心地つきました。旅行に行く前からターニングポイントになると話していた2日目の夜です。ここまで読んでくださった方ならお気づきでしょうが、満場一致(2人ですが)で「4日目はエフェス行き」に決定です!
フェネルの部分でも書きましたが、本当にいろいろな偶然が重なって、無茶苦茶かもしれないと話していた旅行計画で行きたかったところにほとんど行くことができ、感無量の気持ちでした。イスタンブールの文化をここまでしっかりと味わい尽くした後に、エフェスにも行けることが楽しみでなりません。
明日も5時に起きれば朝ジョグができるという約束だけし、眠りにつきました。

ここまでで2日目終了、旅もいよいよ折り返しです。来週木曜日以降に投稿します。読んでいただきありがとうございます。

[(↓)スレイマニエ・モスク]

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[23/10/9 10:04 by T.T]
トルコ歴史探訪③(イスタンブール1日目後編:トプカプ宮殿~ブルーモスク~アヤソフィア~夕食~就寝)
こんにちは、田邉です。本日は午後からトレラン練習会があるので、午前中に1日目の後編を投稿しておきます。(③まででようやく1日目までがコンプリートです)

さて、精神面はガラタ塔の絶景で、体力面は絶品サバサンドで回復して、意気揚々とトプカプ宮殿に辿り着きます。
16:00に一部の施設が閉館ということでしたが、14時半頃に着けたので一安心。
ちなみにドルマバフチェ宮殿あたりからそうなので今更なのですが、やっぱり観光客がめちゃくちゃ多い!
ルメリ・ヒサルですれ違ったのは一組だけ。散歩ついでと思しき老夫婦しかいらっしゃらなかったので、我々が初手ルメリ・ヒサルを選んだ異常性が際立ちます。(ルメリ・ヒサル時点では「平日に来たし、まぁ大都会イスタンブールとはいえ、そんなもんか」と思っていた)
トプカプ宮殿はとにかく広くて、ちょっと全館回り切れる感じではありませんでしたので、本館、ハレム、宝物館だけは行こうと決めて、まぁそれ以外は時間次第で、という感じにしました。
本館はドルマバフチェ宮殿の方でも書きました通り、もちろん豪華絢爛なのですが、あちらを先に観ているだけにどこか抑えた印象。少なくとも当時のオスマン帝国の人が愛していたターコイズカラー中心の装飾がなされているのではないかと思いました。不思議な表現ですが、あちらの余所行き感に比べると、ここは”実家のような安心感”があるとでも言いましょうか。
続いて16時で閉まってしまうハレムに向かいます。ここは本当に落ち着いた空間で、しかし時々日差しが全く当たらない廊下や部屋があって、若干薄暗い印象を受けるくらいでした。ハレムはスルタンの血縁女性が政治権力を争って暗躍する、日本で言うと大奥のような場所でした。オスマン帝国の女性で有名なのは「ヒュッレム・ハセキ・スルタン」と呼ばれる、スレイマン1世の皇后です。奴隷の身分から皇后まで上り詰めたというそのストーリーに魅せられる人は多かったようで、今でもその名前を冠した浴場がアヤソフィアの目の前に残るほどの人気者です。ヒュッレムの登場は血縁の女性の政治参加が活発化する大きな転換点だったそうで「スルタンは神の影から現実の男に戻された」と言われていたとのことです。
前述したカフェスはこのハレムの中にあったのですが、係員の人に訊いてもどうしても見つけられませんでした。後日、日本に帰ってきてからトプカプ宮殿の見取り図などを検索したら、一番奥にあるムラト3世の部屋から、左手に中庭の見える渡り廊下があり、そのすぐそばに「皇子の部屋」と呼ばれるカフェスはあったようでした。探していたのでよく覚えているのですが、当日この部屋のドアは閉まっていましたし、ここを出入りする観光客は一人もいませんでした。恐らく改修期間だったか公開を止めたか、いずれにせよ一般公開はしていなかったのでしょう。
もちろんこのカフェスの部屋に入って、精神が病んでしまうほど追い詰められたスルタン候補の皇子たちに想いを馳せてみたいという目標はありましたが、ある意味これで良かったのかもしれません。このハレム内がどんな雰囲気だったかは薄暗い廊下からなんとなく掴むことができましたし、また400年も経った今も人々から見向きもされないその部屋の方が、却って鳥かごの中で世間から隔離されて苦しんだ皇子たちの悲哀をよく表しているんじゃないかな、と思うからです。

[(↓)トプカプ宮殿ハレム内の一室。ターコイズカラーの少し暗めな部屋が多い印象]
トプカプ宮殿を出ると17時。9月下旬のイスタンブールはまだまだ夏の気配で外は暑くて明るいです。
アヤソフィアはどうやら礼拝の時間が被ってしまったらしく、ブルーモスクの愛称で知られるスルタンアフメト・モスクに行きます。一応長ズボンを穿いてはいましたものの、他宗教の宗教施設をどんな恰好で入っていいものか緊張していましたが、さすがに旧市街地の思いっきり観光地なだけあってそれほど堅苦しい雰囲気ではなく、なんなら半ズボンを穿いた観光客もたくさんいて、受付で止められては貸出の長ズボンを借りている様子でした。
ブルーモスクは青く美しいステンドグラスが印象的で、建物自体が一つの宝石箱みたいだなという印象を受けました。この後いくつものモスクを巡ることになりますが、早速かなり大きくて綺麗なものを観てしましました。あとで写真を見返すと、当然のことながら当時は写真はなかったにも関わらず、非常に写真映えのするモスクでした。

そして次のアヤソフィアにいった時の小泉くんのリアクションは忘れられません。
モスク全体のドームの大きさ、洗練された作りに、目にうっすらと涙を浮かべるほど感動していました。彼は以前も時々話してくれたのですが人の手で作られた偉大な製作物に対して、その仕事の丁寧さやその仕事にかけた人の熱量に、強く感動することがあるそうです。私は小泉くんほど深く感じ入ったわけではありませんでしたが、確かにその空間は厳かで何か人智を超えて背筋が伸びるようなハッとする感覚がありました。メフメトがここを取り壊さなかった理由はわかるような気がします。よく「第二次世界大戦の時に米軍が京都の町があまりにも綺麗で原爆を落とせなかった」という若干本当か嘘かわからないような逸話を耳にしますが(残存している史実は「古都だからという理由でターゲットから外した」という文章が残っていることですかね?)、もしかしたらそれに近い感覚もあったのではないかと。
もちろん、この時のメフメトの政治体制や施策はもっと現実的な観点から取られたものだと歴史学上の記述はありますし、それは正しいでしょう。しかし、実際に生きる人の心はもっといろいろな出来事と経験を元に細かく細かく揺れ動くものだと思っています。
もしかしたらメフメトはアヤソフィアに最初に入った時に、小泉くんと同じくらいに感動して、そうした感動や畏敬の念がその後のコンスタンティノープル統治に関する判断の随所で「支配した異教徒の街を慈しみ守りながら、その地に新しい文化を築いていく」ように繋がっていたとしてもおかしくありません。そんなことを、自分の感覚や隣で涙を浮かべる小泉くんを見て、改めて感じることができました。歴史的に正しいことは歴史書を見ればわかりますが、こういう体験はやっぱり自分で足を運ばなければ気付くことができません。小泉くんとは感じ方や考えは全然違いますが、そうした人の感じ方との違いも含めて、やはり来てみてよかったと思いました。

この日はもうお腹いっぱいでしたが、せっかくミュージアムパスポートがあるので考古学博物館に行きました。私は自分の勉強した範囲以外はよくわからない歴史弱者なので「教科書で見たことあるこんなものまでトルコで出土したんだ、へぇー」という愚かさでしたが、小泉くんはギリシャ神話に明るいのでテンションが上がっていました。途中、何の像だったかは忘れましたが誰かが誰かに踏まれている構図の石膏像?がありました。たまたま同じ時間に数十名トルコの大学生集団がいて、ふざけていた男の子2人が像と同じ構図の写真を撮影していました。ちょっといいところのおぼっちゃんたちに見えましたが、彼らは我々を見つけて若干邪魔になっていたことを詫びるように決まり悪そうに”めちゃくちゃ見覚えのあるような表情”で微笑みました。
ここで急にオリエンテーリングの話に戻しますが、2012年のユニバーシアード(WUOC)のバンケットで仲良くなったスイスチームが「スイス・ウォッカ」コールで盛り上がっていたのをふと思い出し、この時と全く同じ感想を抱きました。
「やっぱり大学生のノリと馬鹿さはどの国でも変わんねぇ」(そう、見覚えがあったのは大学生オリエンティアが内輪ノリで盛り上がっているのを第三者に見られちゃった時の反応と、そっくりだったからです笑(自身の身にも覚えあり))
考古学博物館を出るとなぜだか博物館前の広場でパーティーをやっていて、本当に偶然なのですが、なんと赤い制服を着た吹奏楽団がいてオスマン帝国の軍歌「Ceddin Deden(祖父も父も)」の生演奏を見ることができました。(今回のテーマにピッタリのシチュエーション!)
前述の通り、アヤソフィアあたりからもう本当にへとへとでしたが、この勇ましい音楽に勇気づけられ、またなんだかんだ序盤のミスの遅れを取り返して1日目をたくさん回ることができたという達成感も相まって、なんだか元気が出てきました。

ホテルに着き、夜の食事はアヤソフィア周辺に。
しかし、やっぱり超首都圏、日本で言うと銀座のレストランみたいな場所なので物価が凄まじく高い!地球の歩き方は2019-2020年版で博物館も食事場所も、どこに行っても値段は数倍から数十倍しました。とはいえすでにバテバテでしたから、せめて肉料理を一皿300TL(約2000円程度)台で出しているところを探し、一皿に多種類のケバブ肉と野菜が盛られたミックスケバブプレート1人前を頼み、あとはトルコで最も有名なエフェスビールを1杯ずつ頼み、乾杯をしました。その日の歩数は46131歩(36.3km)!
もう味が濃ければ何食ったって美味いに決まってます。
トルコ料理は世界三大料理と言われており、そのミックスケバブはその時まさに欲しかった塩分と油っ気があってめちゃくちゃ美味かったのですが、残念なことにそれを表現するほどの力や楽しかった一日を振り返って笑いながら会話するほどの体力が、もう2人とも残っていませんでした。隣で談笑する陽気なトルコ人たちはきっと我々のテーブルを見て「アジア人ってどうしてこんなに美味しくて楽しい食事の場でつまらなそうに飯を食うんだ」とでも思っていたことでしょう。(多分ただの被害妄想)
その後、オリエンティア界隈のSNSでちょっとだけ話題になったというトルコアイス屋さんとの振り回されコミュニケーションを楽しみつつ、宿に着きました。
宿はホテルプロフィールでランドリー有となっていたのですが、どうやら洗濯機があるわけではなく朝預けて夜に仕上げてくれるような有料ランドリーサービスに出してもらえるという意味でした。(荷物軽量化のためかなり衣服を削っていたので焦りましたが、2日目の朝にランニングをしてから出せばギリギリ持つかなという計算になりました)

タオルやベッドは清潔でいい感じ。この日の睡眠はここ1年で一番ではないかと見まがうほどのパーフェクトスリープでした。小泉くんは寝る前に今日の振り返りや明日の予定確認などもう少ししたかったそうですが、私は飛行機でもあまり寝られていなかった&14時にサバサンド食べるほど欠食していたなどで疲労と眠気のピークに達しており、翌日の朝ジョグの起床時間だけ確認して明日の衣服の準備をしたら速攻で寝ました。後で聞いたら「自分がシャワーから出たらすでにポケモンスリープを立ち上げている様子を見て、ああこの人めちゃくちゃ眠いんだな」と思って、そのまま寝かせたとのこと。
私は比較的自律神経が弱く、諸々の環境変化に弱いので、食事についてだけでなく、海外のホテルでぐっすり寝て体力回復できるかも非常に気になる観点でしたが、2日目朝起きた時のあまりのスッキリ具合に感激しました。

さて、ここまででイスタンブール編1日目を終わります。読んでいただきありがとうございました。(ちなみにやっぱり全部で7~8編になりそうです…)

[(↓)一等地のレストランでちょっとお高めでしたが、塩気と油気が最高で絶品のミックスケバブでした]