Yolc Diary


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Diary

[23/10/9 10:04 by T.T]
トルコ歴史探訪③(イスタンブール1日目後編:トプカプ宮殿~ブルーモスク~アヤソフィア~夕食~就寝)
こんにちは、田邉です。本日は午後からトレラン練習会があるので、午前中に1日目の後編を投稿しておきます。(③まででようやく1日目までがコンプリートです)

さて、精神面はガラタ塔の絶景で、体力面は絶品サバサンドで回復して、意気揚々とトプカプ宮殿に辿り着きます。
16:00に一部の施設が閉館ということでしたが、14時半頃に着けたので一安心。
ちなみにドルマバフチェ宮殿あたりからそうなので今更なのですが、やっぱり観光客がめちゃくちゃ多い!
ルメリ・ヒサルですれ違ったのは一組だけ。散歩ついでと思しき老夫婦しかいらっしゃらなかったので、我々が初手ルメリ・ヒサルを選んだ異常性が際立ちます。(ルメリ・ヒサル時点では「平日に来たし、まぁ大都会イスタンブールとはいえ、そんなもんか」と思っていた)
トプカプ宮殿はとにかく広くて、ちょっと全館回り切れる感じではありませんでしたので、本館、ハレム、宝物館だけは行こうと決めて、まぁそれ以外は時間次第で、という感じにしました。
本館はドルマバフチェ宮殿の方でも書きました通り、もちろん豪華絢爛なのですが、あちらを先に観ているだけにどこか抑えた印象。少なくとも当時のオスマン帝国の人が愛していたターコイズカラー中心の装飾がなされているのではないかと思いました。不思議な表現ですが、あちらの余所行き感に比べると、ここは”実家のような安心感”があるとでも言いましょうか。
続いて16時で閉まってしまうハレムに向かいます。ここは本当に落ち着いた空間で、しかし時々日差しが全く当たらない廊下や部屋があって、若干薄暗い印象を受けるくらいでした。ハレムはスルタンの血縁女性が政治権力を争って暗躍する、日本で言うと大奥のような場所でした。オスマン帝国の女性で有名なのは「ヒュッレム・ハセキ・スルタン」と呼ばれる、スレイマン1世の皇后です。奴隷の身分から皇后まで上り詰めたというそのストーリーに魅せられる人は多かったようで、今でもその名前を冠した浴場がアヤソフィアの目の前に残るほどの人気者です。ヒュッレムの登場は血縁の女性の政治参加が活発化する大きな転換点だったそうで「スルタンは神の影から現実の男に戻された」と言われていたとのことです。
前述したカフェスはこのハレムの中にあったのですが、係員の人に訊いてもどうしても見つけられませんでした。後日、日本に帰ってきてからトプカプ宮殿の見取り図などを検索したら、一番奥にあるムラト3世の部屋から、左手に中庭の見える渡り廊下があり、そのすぐそばに「皇子の部屋」と呼ばれるカフェスはあったようでした。探していたのでよく覚えているのですが、当日この部屋のドアは閉まっていましたし、ここを出入りする観光客は一人もいませんでした。恐らく改修期間だったか公開を止めたか、いずれにせよ一般公開はしていなかったのでしょう。
もちろんこのカフェスの部屋に入って、精神が病んでしまうほど追い詰められたスルタン候補の皇子たちに想いを馳せてみたいという目標はありましたが、ある意味これで良かったのかもしれません。このハレム内がどんな雰囲気だったかは薄暗い廊下からなんとなく掴むことができましたし、また400年も経った今も人々から見向きもされないその部屋の方が、却って鳥かごの中で世間から隔離されて苦しんだ皇子たちの悲哀をよく表しているんじゃないかな、と思うからです。

[(↓)トプカプ宮殿ハレム内の一室。ターコイズカラーの少し暗めな部屋が多い印象]
トプカプ宮殿を出ると17時。9月下旬のイスタンブールはまだまだ夏の気配で外は暑くて明るいです。
アヤソフィアはどうやら礼拝の時間が被ってしまったらしく、ブルーモスクの愛称で知られるスルタンアフメト・モスクに行きます。一応長ズボンを穿いてはいましたものの、他宗教の宗教施設をどんな恰好で入っていいものか緊張していましたが、さすがに旧市街地の思いっきり観光地なだけあってそれほど堅苦しい雰囲気ではなく、なんなら半ズボンを穿いた観光客もたくさんいて、受付で止められては貸出の長ズボンを借りている様子でした。
ブルーモスクは青く美しいステンドグラスが印象的で、建物自体が一つの宝石箱みたいだなという印象を受けました。この後いくつものモスクを巡ることになりますが、早速かなり大きくて綺麗なものを観てしましました。あとで写真を見返すと、当然のことながら当時は写真はなかったにも関わらず、非常に写真映えのするモスクでした。

そして次のアヤソフィアにいった時の小泉くんのリアクションは忘れられません。
モスク全体のドームの大きさ、洗練された作りに、目にうっすらと涙を浮かべるほど感動していました。彼は以前も時々話してくれたのですが人の手で作られた偉大な製作物に対して、その仕事の丁寧さやその仕事にかけた人の熱量に、強く感動することがあるそうです。私は小泉くんほど深く感じ入ったわけではありませんでしたが、確かにその空間は厳かで何か人智を超えて背筋が伸びるようなハッとする感覚がありました。メフメトがここを取り壊さなかった理由はわかるような気がします。よく「第二次世界大戦の時に米軍が京都の町があまりにも綺麗で原爆を落とせなかった」という若干本当か嘘かわからないような逸話を耳にしますが(残存している史実は「古都だからという理由でターゲットから外した」という文章が残っていることですかね?)、もしかしたらそれに近い感覚もあったのではないかと。
もちろん、この時のメフメトの政治体制や施策はもっと現実的な観点から取られたものだと歴史学上の記述はありますし、それは正しいでしょう。しかし、実際に生きる人の心はもっといろいろな出来事と経験を元に細かく細かく揺れ動くものだと思っています。
もしかしたらメフメトはアヤソフィアに最初に入った時に、小泉くんと同じくらいに感動して、そうした感動や畏敬の念がその後のコンスタンティノープル統治に関する判断の随所で「支配した異教徒の街を慈しみ守りながら、その地に新しい文化を築いていく」ように繋がっていたとしてもおかしくありません。そんなことを、自分の感覚や隣で涙を浮かべる小泉くんを見て、改めて感じることができました。歴史的に正しいことは歴史書を見ればわかりますが、こういう体験はやっぱり自分で足を運ばなければ気付くことができません。小泉くんとは感じ方や考えは全然違いますが、そうした人の感じ方との違いも含めて、やはり来てみてよかったと思いました。

この日はもうお腹いっぱいでしたが、せっかくミュージアムパスポートがあるので考古学博物館に行きました。私は自分の勉強した範囲以外はよくわからない歴史弱者なので「教科書で見たことあるこんなものまでトルコで出土したんだ、へぇー」という愚かさでしたが、小泉くんはギリシャ神話に明るいのでテンションが上がっていました。途中、何の像だったかは忘れましたが誰かが誰かに踏まれている構図の石膏像?がありました。たまたま同じ時間に数十名トルコの大学生集団がいて、ふざけていた男の子2人が像と同じ構図の写真を撮影していました。ちょっといいところのおぼっちゃんたちに見えましたが、彼らは我々を見つけて若干邪魔になっていたことを詫びるように決まり悪そうに”めちゃくちゃ見覚えのあるような表情”で微笑みました。
ここで急にオリエンテーリングの話に戻しますが、2012年のユニバーシアード(WUOC)のバンケットで仲良くなったスイスチームが「スイス・ウォッカ」コールで盛り上がっていたのをふと思い出し、この時と全く同じ感想を抱きました。
「やっぱり大学生のノリと馬鹿さはどの国でも変わんねぇ」(そう、見覚えがあったのは大学生オリエンティアが内輪ノリで盛り上がっているのを第三者に見られちゃった時の反応と、そっくりだったからです笑(自身の身にも覚えあり))
考古学博物館を出るとなぜだか博物館前の広場でパーティーをやっていて、本当に偶然なのですが、なんと赤い制服を着た吹奏楽団がいてオスマン帝国の軍歌「Ceddin Deden(祖父も父も)」の生演奏を見ることができました。(今回のテーマにピッタリのシチュエーション!)
前述の通り、アヤソフィアあたりからもう本当にへとへとでしたが、この勇ましい音楽に勇気づけられ、またなんだかんだ序盤のミスの遅れを取り返して1日目をたくさん回ることができたという達成感も相まって、なんだか元気が出てきました。

ホテルに着き、夜の食事はアヤソフィア周辺に。
しかし、やっぱり超首都圏、日本で言うと銀座のレストランみたいな場所なので物価が凄まじく高い!地球の歩き方は2019-2020年版で博物館も食事場所も、どこに行っても値段は数倍から数十倍しました。とはいえすでにバテバテでしたから、せめて肉料理を一皿300TL(約2000円程度)台で出しているところを探し、一皿に多種類のケバブ肉と野菜が盛られたミックスケバブプレート1人前を頼み、あとはトルコで最も有名なエフェスビールを1杯ずつ頼み、乾杯をしました。その日の歩数は46131歩(36.3km)!
もう味が濃ければ何食ったって美味いに決まってます。
トルコ料理は世界三大料理と言われており、そのミックスケバブはその時まさに欲しかった塩分と油っ気があってめちゃくちゃ美味かったのですが、残念なことにそれを表現するほどの力や楽しかった一日を振り返って笑いながら会話するほどの体力が、もう2人とも残っていませんでした。隣で談笑する陽気なトルコ人たちはきっと我々のテーブルを見て「アジア人ってどうしてこんなに美味しくて楽しい食事の場でつまらなそうに飯を食うんだ」とでも思っていたことでしょう。(多分ただの被害妄想)
その後、オリエンティア界隈のSNSでちょっとだけ話題になったというトルコアイス屋さんとの振り回されコミュニケーションを楽しみつつ、宿に着きました。
宿はホテルプロフィールでランドリー有となっていたのですが、どうやら洗濯機があるわけではなく朝預けて夜に仕上げてくれるような有料ランドリーサービスに出してもらえるという意味でした。(荷物軽量化のためかなり衣服を削っていたので焦りましたが、2日目の朝にランニングをしてから出せばギリギリ持つかなという計算になりました)

タオルやベッドは清潔でいい感じ。この日の睡眠はここ1年で一番ではないかと見まがうほどのパーフェクトスリープでした。小泉くんは寝る前に今日の振り返りや明日の予定確認などもう少ししたかったそうですが、私は飛行機でもあまり寝られていなかった&14時にサバサンド食べるほど欠食していたなどで疲労と眠気のピークに達しており、翌日の朝ジョグの起床時間だけ確認して明日の衣服の準備をしたら速攻で寝ました。後で聞いたら「自分がシャワーから出たらすでにポケモンスリープを立ち上げている様子を見て、ああこの人めちゃくちゃ眠いんだな」と思って、そのまま寝かせたとのこと。
私は比較的自律神経が弱く、諸々の環境変化に弱いので、食事についてだけでなく、海外のホテルでぐっすり寝て体力回復できるかも非常に気になる観点でしたが、2日目朝起きた時のあまりのスッキリ具合に感激しました。

さて、ここまででイスタンブール編1日目を終わります。読んでいただきありがとうございました。(ちなみにやっぱり全部で7~8編になりそうです…)

[(↓)一等地のレストランでちょっとお高めでしたが、塩気と油気が最高で絶品のミックスケバブでした]

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[23/10/8 17:31 by T.T]
トルコ歴史探訪②(イスタンブール1日目前編(空港~ホテル~ルメリ・ヒサル~ドルマバフチェ宮殿~ガラタ塔)
こんにちは、田邉です。
昨日初稿を投稿したところ、思いのほか評判が良かったので、せっかくの三連休、明日明後日にかけて行程の1日目までを投稿しようかなと思います。
引き続き長いのですがお付き合いいただければ嬉しいです。さぁ、始めましょう。

空から観るイスタンブールの夜景に感激しながら意気揚々とテイクオフ、、、するも早速最初のトラブルが勃発。
まず事前にいただいていた案内図の出口ゲートの数字が間違っていて20分程のロス。さらにホテルに依頼していた空港へのお迎えが来ていません。Booking.comを通して緊急連絡先に電話をかけてみるも英語が全然通じずメッセージチャットを送れと言われるも、メッセージチャットにはすぐには反応してくれません。
その場でお迎えバス斡旋のお兄さんがいたので、なんとかGoogle翻訳を使って対応してもらったのですが、どうやらホテルのお迎えは来ておらず、ホテル側の主張では「そちらが事前支払いを行っていないから迎えは出さなかった」とのこと。事前にそんな連絡はなかったのですが、仕方なくタクシーを拾い、空港からホテルへ移動して荷物を置きに行きます。ホテルに到着すると早速いくつか気付いたことが。どうやら英語を出来る人と出来ない人がまちまちであること、Google翻訳を使ってコミュニケーションを取るのはもはやマニュアル化された仕草であること、あとこれは宿泊するうちに徐々にわかってくることでもありますがこのホテルの従業員が適度にテキトーであること、などです。
実は他にも事前に「ミュージアムパスポート」というトルコ中で使える博物館フリーパスの手配をお願いしていて「いいですよ。やってみます。」という連絡をいただいた上で、「もし無理だったら連絡してね」とメッセージを送っていたのですが、この要望も当日フロントに行ったら「マネージャーにも相談したのですが手配できませんでした」と言われました。(だから先に言ってくれや、、、)

ツッコミどころの多い出立でしたが、何はともあれ、ホテルに荷物を置かせてもらえて意気揚々と出発です。
最初にミュージアムパスポートを入手しようと市内を散策するも、まだ朝の7時半で近場の博物館の開館時間になっておらず、トプカプ宮殿で券売機を探そうとするも銃を持った憲兵さんが通してくれず(なんなら若干構えるような仕草も見せ、、、)我々、早速銃文化にビビらされます。
しょうがないので最初の目的地ルメリ・ヒサルであったら買おうと切り替えるもここで早々に次のアクシデントが発生。バスや路面電車や地下鉄(及び有料トイレの支払い)に共通で使える「イスタンブール・カード」という日本で言う「Suica」「Icoka」みたいなカードがあるのですが、その券売機が我々のトルコ・リラ(以下、TL)をどうしても吸い込んでくれません、、、
途中、(恐らく滅茶苦茶善良で親切な)路面電車に乗ろうとしていた女性が5分くらい必死に我々に通じないトルコ語で説明してくれようとするもその甲斐なく、15分ほど格闘した我々は一旦その場でイスタンブールカードの入手を諦めて、とりあえず最寄りの路面電車の駅を離れて次の乗り換えがある乗り場まで歩くことにします(約3km)。
尚、小泉くんはこの謎券売機に70TLを吸い込まれ、不幸にもこの70TLが彼の手元に帰ることはありませんでした(R.I.P)。
そして停留所で私は運よく200TLが券売機に吸い込まれ、しかもカード(70TL)との差額130TLがチャージされた完璧な状態となります。小泉くんはいつまで経っても200TLが吸い込まれず、ここでも見かねた現地の学生風の男性が助けてくれて、どうやらこの販売機は100TLまでしか吸い込まない仕様なんだと教えてくれました。そこで男性は小泉くんの持っていた200TLを100TL2枚に両替してくれました。なんとありがたい!(ちなみに私の200TLをなぜ販売機が受け容れてくれたのかは永遠の謎に包まれています、、、)

人心地ついてようやく公共交通に乗れるぞ!と息まいて改札をくぐり路面電車を待つも、なんと次は路面電車でなくバスに乗らなければいけないことに小泉くんが気付きます。ちなみに不思議な文化ですが、トルコの公共交通機関は出発予定時刻より早く出発することがあり得る、ということがここでわかります。(これは後日、壮大な伏線となります)
バスに乗る時にもさらにトラブルが発生。
路面電車やバスの乗車賃はどうやら一律15TLだったようですが、小泉くんは間違えて路面電車に入った時に15TLを、さらに恐らく退出時に誤ってタッチしてしまって15TLを、すでに合計30TLを支払ってしまい、バスに乗車した時点ではチャージ残金が0になっていたことが乗り込んだ際に発覚しました。バスの運転手から「それじゃ乗せられない」と怒られます。
そしてここで見捨てないのがどうやらトルコ人。あまりにも情けないアジア人に同情したらしい一番近くに座っていたおじいさんが「現金で15TL、俺に払ってくれればいいから」と言って、代わりに自分のイスタンブールカードをタッチパネルに差し出して我々をバスに乗れるようにしてくれました。感謝感激です。

ここまでで書いたように、序盤はちょっとしたコミュニケーションミスに加えて、そもそもイスタンブール式の勝手がわからないことによるミスが連発し、早速3㎞30分の徒歩が加わったのも相まってグッタリと疲れてしまいました。しかし多くの人の優しさによりようやく公共交通機関に乗れた時の安堵感は絶大なものでした。到着したバス停からルメリ・ヒサルの入口を間違えて30℃近い酷暑の中で1㎞↑50mのウォークトレが追加となるも、ここまでのミスの対処の方が遥かに大変だったので自分で解決できる程度のことという傷の浅さなど何でもなかったです。何より空港に降り立ってから約5時間の悪戦苦闘の末、トルコ旅行第一の観光目的地に着くことができたのです、、、その感慨たるや筆舌しがたく、その時の我々には何でも笑って済ませられそうな勢いがありました。
ルメリ・ヒサルでは窓口でミュージアム・パスポートを入手することができました。3500TLと高額でしたが、これはこの後の行程を鑑みても入手しておいて良かったです。ルメリ・ヒサルの受付のお姉さんはパスポートを購入したにも関わらず「え、ルメリ・ヒサルも入るの!?」という感じでなぜかちょっと驚いた様子でした。ルメリ・ヒサルはイスタンブールからボスポラス海峡沿いを北に10㎞以上離れた郊外で、他には観光地もないような場所です。これは小泉くんとも話したことですが、恐らくアジア人でこんなコアな場所を見学に来る人もいないのでしょう、、、

ルメリ・ヒサルはメフメト2世がヨーロッパ側に建設したコンスタンティノープル攻略のための砦です。ボスポラス海峡を通る船舶を上から砲撃できる機能を持っているだけでなく、アジア側の対岸に存在するアナドル・ヒサルとの関係も私視点では注目でした。前述しましたが、アナドル・ヒサルもルメリ・ヒサルの対岸にある軍事用の砦であり、これを建設したのはメフメト2世の曾祖父である雷帝バヤズィト1世です。実はオスマン帝国にとってコンスタンティノープルは何十年にも渡って奪いたいと考えられてきた悲願の地であり、バヤズィト1世はメフメト2世より60年以上前に陥落目前まで追い詰めています。(なぜか何の関係もなく突然東からやってきたモンゴル帝国のティムールという武将に倒されて夢が潰えるのですが、、、)
野心家のメフメト2世が、オスマン家に伝わる夢に挑む気持ちはどんなものだったのだろうか、曾祖父の建てたアナドル・ヒサルのことをどんな風に意識してこのルメリ・ヒサルを建てたのだろうか、ルメリ・ヒサルの塔を登ってそんな気持ちを味わってみたいと思いました。ルメリ・ヒサルの上からメフメト2世も観ていたであろうコンスタンティノープルが、特にその象徴であるアヤソフィアが観えたりしたらエモくて最高だなと思いワクワクしていましたが、さすがに砦の一番上までは入れなかったため観えませんでした。しかし、ルメリ・ヒサルからは確かにボスポラス海峡が一望でき、如何にも中世の軍事施設だなという感想を抱きました。この砦をわずかに4ヶ月で造営したというのも驚きで、オスマン帝国の勢いや財力を象徴するエピソードだとも思いました。

[(↓)苦労に苦労を重ねて辿り着いたルメリ・ヒサル。ボスポラス海峡が一望できます。メフメトはここで虎視眈々とコンスタンティノープルを狙っていたのでしょう]
ルメリ・ヒサルは一つだけ離れた場所にあったので、すぐに折り返しのバスを拾います。チャージできる券売機がなかったので小泉くんのバス代は自分が2回タッチすることで代替可能でした。次の目的地はドルマバフチェ宮殿です。

このドルマバフチェ宮殿は事前打ち合わせで行くか行かないかを少し議論した場所でした。ドルマバフチェ宮殿は19世紀に西洋化していく流れの中で作られた、当時のヨーロッパ流行のバロック様式とオスマン様式を折衷した豪奢な宮殿です。4日間しかない旅程はシビアで優先順位付けをしなければ行けない中で、イスラム文化を味わう場としてはどうかという話を小泉くんとしていましたが、歴史の名場面が刻まれた場所の一つだったので、私は行きたいと主張しました。特に観たかったのはメフメト6世が旅立つ波止場です。
メフメト6世はオスマン帝国最後のスルタンで、1922年に起きたトルコ革命により彼はイギリスの軍艦でマルタへ亡命します。このような経緯を持つ人物としては当然ですが国内でもあまり人気も評価も高くないようです。ドルマバフチェ宮殿にある波止場はメフメト6世の亡命の舞台であり、このシーンは資料集の写真にも多く残っています。オスマン帝国623年の歴史に幕を閉じる一場面、彼の全身から無力さや諦観や哀愁が現れており、私はその写真に深い感銘を受けました。(あくまで私の主観ですが、メフメト6世は眼鏡をかけた小柄な男性で、どこか昭和天皇を思わせるような哀愁漂う雰囲気がそのシーンの物悲しさを増加させているのかもしれません)
とうとうその波止場に辿り着いた時の感動は忘れられません。この旅を通していろいろな気付きや感慨はありましたが、やはり自分が勉強をして観たいと望んだ場所を自分の目で観るという感動が一番大きかったです。
波止場は西洋式の豪奢な門があり、如何にもフォトジェニックなスポットだったので写真撮影の行列が絶えませんでした。ほんの100年前には国の行く末を左右する大事件が起こり、また哀愁溢れる一場面を彩ったこの地が、現在では着飾った民衆によって賑わっている様子というのも歴史の皮肉を感じて非常に良かったです。

ドルマバフチェ宮殿の中を覗いていて、もちろん豪華絢爛さに圧倒されましたが、同時に感じたのはオスマン帝国のヨーロッパに対する気負いです。日本で言うと明治時代、鹿鳴館で日本人がスーツとドレスに身を包んで社交ダンスを嗜み、文化を真似しながら西欧に追い付こうと必死だったと言われていますが、それに似た気負った態度を建物全体から感じました。特にこの後トプカプ宮殿にも行ったのですが、トプカプ宮殿はもっと着実にイスラム文化に寄せた施設というか、例えば壁にはトルコ装飾として知られるようなターコイズブルーを基調とした模様が多くありましたが、ドルマバフチェ宮殿では豪華絢爛なシャンデリアやヨーロッパ式の装飾品ばかりが目立っていて、正直オスマン様式との折衷という要素はかなり薄いように感じられました。この宮殿内にもハレムと呼ばれる、スルタンが妻や子供と過ごすためのプライベートスペースがあるのですが、本館とハレムを比較すると本館の余所行き感が際立つように感じました。本館はヨーロッパからの来賓をもてなす場所として使われていたのでオスマン帝国の首脳陣にとって「舐められてはいけない」場所だったのではないかと想像しました。
この時期の外交としては第32代アブデュルアズィズのエピソードが有名です。彼は1867年にパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国のスルタンとしては史上初となる西欧諸国歴訪を行っており、このときイギリスのビクトリア女王やフランスのナポレオン3世と面会していると記録されています。(あとで調べたら豪華なシャンデリアはビクトリア女王から贈られたものとありました)
確かにこの時期のイギリスやフランスはアジアやアフリカ諸国の植民地化に熱を入れている真っ最中です。1857年にはアジアの大国だったインドが大反乱を抑え込まれイギリスに植民地化されるという大きな動きがありました。「西欧諸国に舐められてはいけない」とオスマン帝国が気負うのはある種必然だったかもしれません。
トルコというヨーロッパとイスラムとアジアという多様な文化の結節点となる国が生まれた背景にはただ単に地理的に近かったというだけでなく、まだ植民地化や領土争いの戦争が当たり前にあった時代に、国と国との緊張関係をどうすべきか人々が苦悩した末に生まれたのではないか、そんな背景も感じ取ることができました。

ドルマバフチェ宮殿を出て水を買い、次の目的地であるガラタ塔は、公共交通機関ではなんとも行きにくいところにあったのでここもさらに歩きました。(+3㎞↑100m程度でしょうか、、、イスタンブールはとにかく坂が多いのです、、、)
イスタンブールの一番のメインどころは有名なアヤソフィアやトプカプ宮殿がある旧市街地と言われる地区ですが、そこから北に金角湾を渡った対岸の地区はガラタ地区と呼ばれています。メフメト2世は”征服王”の異名で知られていますが、信教の自由に関してはかなり寛容な姿勢を取っていたようです。この地域には、ビザンツ帝国時代にはメフメト2世側についてコンスタンティノープル陥落のキッカケを作ったと言われているジェノバ人が住んでおり、またメフメト2世の支配後から現代に至るまでキリスト教徒やユダヤ教徒も住んでいたそうです。1492年、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)と呼ばれる、現在のスペインからのユダヤ人追放が行われますが、この時のユダヤ人の一部を受け容れた国家の一つがオスマン帝国でした。
ガラタ塔はほとんどの旅行雑誌に掲載されているようなイスタンブールの絶景スポットでしたが、そういう背景も調べていたので、途中のガラタ地区の街並みからも多様な人種や民族が混ざり合った雰囲気も感じられるといいなと思っていました。
しかし、ふとこの辺りで気付いたのですが、我々はかなり疲れていたのでした。
この頃時刻は13時を周り、朝3時頃に機内食を食べてからすでに10時間が経過、しかも気温も高く日差しも強く、目の前には延々と続く坂道。ヨーロッパ風の街並みは綺麗でしたが、そもそもドルマバフチェ宮殿を観た後なのでそこまでの感慨もなく、だいぶ疲弊した状態で坂を登るのみだったのがこの辺りの記憶です。
やっぱり到着の興奮やらトラブル対応やらで一生懸命になっている時ってアドレナリンが出ていて、疲労やら空腹なんていつの間にか意識の外に出てて、ふと冷静になった時にドッと来るんですよね。

しかし、この疲労もガラタ塔に登ると吹っ飛びました。
金角湾、ボスポラス海峡、イスタンブールの旧市街地にあるアヤソフィアとトプカプ宮殿、ここは息を呑むような、絶対に行くべき絶景スポットで間違いありませんでした。
実は当初は「旧市街地にある世界遺産群(アヤソフィアやトプカプ宮殿)にどれだけ時間をかけるべきか」はかなり悩んでいてこのガラタ塔も優先順位付けで少し議論になったスポットでした。しかし、やっぱり人間というのは単純で高いところと絶景が好きなのです。(よく考えるとこのリアクション、空からイスタンブールの夜景が観えた時の興奮と全く同じです。「馬鹿と煙は高いところが好き」とはよく言ったもの)
歴史的な観点ではガラタ塔はコンスタンティノープルを攻める際の武器庫として使われていました。ルメリ・ヒサルの時と異なり、イスタンブールの旧市街地は目と鼻の先で、その全容が見渡せます。
メフメトはここからどんな気持ちでコンスタンティノープルの街を観ていたのでしょうか?
彼の目から当時キリスト教会だったアヤソフィアはどんな風に見えていて、アヤソフィアをイスラム教のモスクに変えるという構想はいつから考えていたのでしょうか?
コンスタンティノープル攻略のキッカケとなる船の丘越えはもしかしたらこの塔にいる時に思いついたのでしょうか?
やっぱり現地で観てみるといろいろな空想が広がります。メフメトの気持ちになってイスタンブール(コンスタンティノープル)の街を見渡してみるという、とてもやりたかったことを達成できました。

さて、ここで気持ちもだいぶ復活。ルメリ・ヒサルまでのトラブルで1時間ほど遅れていましたが、当初から昼食を食べたいと望んでいた漁港が目の前です!
この漁港ではトルコのB級グルメ?として有名なサバサンドを食べたかったのです。
匂いに誘われて屋台に行くと、それはそれは大きなサバがたれをつけて網焼きに!
サバサンドは実はパンとの相性が微妙で「その微妙さを楽しむのも一興」みたいな表現をされるような、B級グルメ的な位置づけ料理なのだと小泉くんが教えてくれましたが※、その屋台のサバサンドは、なんとトルティーヤに具を巻いてくれるタイプでたれとサバと生野菜と相性抜群の絶品料理でした。空腹も相まって美味すぎて橋を渡る数分の間に瞬く間に腹に収まりました。ターキッシュエアラインズの機内食は美味しかったですが、正直羽田ーイスタンブール便のトルコ料理はかなり日本人の口に合うように寄せているのではないかと勘ぐっていたので、この現地屋台で買う90TLのお手軽サバサンドが自分の口に合ってめちゃくちゃ美味かったことにはすごく安心しました。
※ちなみに小泉くんはこの旅行に臨むにあたってトルコ料理の勉強や研究もしてきたらしく、トルコ料理店でも食べたし、何品かは自分でも作ってみたとのこと!探求心がすごい!

さて、なんとかイスタンブールの旅も落ち着いてきたところで、第二幕を終わります。明日はイスタンブール1日目の後編を投稿します。

[(↓)これはもうB級グルメなんて呼べないですね!鯖をこんなに美味しくできるなんて、さすが世界三大料理。]